Kana

たかが世界の終わりのKanaのレビュー・感想・評価

たかが世界の終わり(2016年製作の映画)
4.7
ドラン作品の中で未鑑賞作品だったので、恵比寿ガーデンシネマのリニューアルオープン記念「ドランspecial collection」にて鑑賞してきました。

まず私はロランスのレビューにも書きましたが、ドラン作品はどの作品にも共通して本当に音楽、色彩がとてつもなく素敵で、今作は少し控えめではありますが、やっぱり印象深い音楽やメッセージ性のある台詞を入れるタイミングは好きでした。そして、これも毎度言ってますが 私は彼の作品を観ているとすごく安心します。色々考えていいんだよ、って言われてる気がして。考えて考えて考えまくってくれ!って諭されてる気分で。私は、よく 今の感情、その先のこと、また、まだ起こってないことについてまで想像して 考えすぎて面倒くさがられるので、ドランの作品を観ていると安心するんです、、、
と、ちょっと話はそれましたが作品の感想です。




すごく抽象的で作品の感想というより溢れる感情をそのまま描いたような文章なので、とても長いし読みづらいです。。。




家族、と聞いて思い出す人が何人かいる。何人もいる。家族のような友達、友達のような家族、家族以上に一緒にいる人、家族なのにほとんど知らない人、、、思い出す人はたくさんいるけど、辞典で引いた“夫婦とその血縁関係者を中心に構成され、共同生活の単位となる集団“そんな集団もやっぱり思い出されてしまう。


本音じゃなくていい、真実じゃなくてもいい、嘘でもいいし、内容なんてどうでもいい、なんでも構わないから 自分の言葉で 自分の知ってる言葉の中から自分が伝えたいワードを選んで ちゃんと自分の言葉にして伝えたい。伝えてほしい。それが出来ない、家族の中でそれが出来ない。苦しい、だけじゃ足りない。私の知ってる言葉では表す事が出来ない程の息苦しさ、嫌悪、虚無、暗闇、静寂、絶望、その中でも何故かずっと消えてくれないのは、ロウソクの小さな火、見上げるといつも輝いている一番星、下がり切らない自分の体温。苦しくて仕方ない。小説や映画、他人の話から “それこそを愛と呼ぶ” と 仕切りに感じることもある。もしも それが愛なら、愛はこんなに苦しくて仕方ないものなのかと絶望する。
時に、他人への方が優しくなれる事が恐い。
家族とは何か、とまた考える。

「家族だからこそ、気恥ずかしいのよ」

「家族だから、言わなくてもわかるでしょう」

「家族だから、強く当たってしまうの」

本当に嫌悪。最悪。
素敵な花を贈ること、受け取ることは、恥ずかしいこと?誰かが笑うの?誰かが非難したの?悲しいなら言わなくていい、でも、恥ずかしいだけなら言ってほしい。言わなくてもわかることってどんな事?音じゃなくてもいい、どんな形でも 方法でもいいから、知ってほしいことは 伝えてほしい。愛してるからこそ 相手を傷つけていい、なんてことは一生涯無いと思う。愛してる人からだって受けた傷やつけた傷は、ただの傷。

ちゃんと愛したい、愛し続けたい
愛した人に、愛したい人へ 私は
罵倒することを 絶対にしたくない。
その人を 毛布のような暖かい言葉で包み続けたいし、一寸のくすみもない愛を送りたい
花のような美しい言葉を束ねて伝えたいし
その人が送ってくれる その人そのものを全て受け入れたい
本音じゃなくてもいい、嘘でも構わないから、
その人が表現したい形になるまで、一年でも10年でも待つことが幸せだし
一分一秒変わり続ける 愛した人を、愛したい
理想や幻想だと言われるかもしれないけど
恥ずかしいことだとも 間違ってることだとも思わない
私は愛した人たちに、そうありたい
また苦しい努力が続くとしても
瞳をみて、心を向けて、その人の言葉を受け取る
それが愛してる人へ精一杯の態度だと思う
それができる事が 幸せだし
それをしたいと思う事が 愛だと思うから








ルイがデザートを食べてる時、お母さんに 「完璧な時間にしよう、と みんなに言って」と言われて 台詞そのままルイが言った時、自身の息苦しさが爆発して涙が止まらなかった。
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