れじみ

猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)のれじみのレビュー・感想・評価

3.9
1968年から始まった「猿の惑星」シリーズのリブート及びプリクエル(前日譚)のシリーズ3作目にして最終作。

マット・リーヴスは前作から引き続き監督を務めているが、前作が圧倒的な重厚感、言い換えれば全く遊び心のない窮屈な作品であったのに対し、本作ではコミカルな要素が多く取り入れられ、前作以上にエンターテインメントへと進化している。
そもそもマット・リーヴスの作品は、「クローバーフィールド/HAKAISHA」や「モールス」のように終始シリアスな作品が多く、それを踏まえれば前作のような作風になるのは当然の結果であり、今回の新作に多くのユーモアが加わっていたのは良い意味で想定外だった。

そのユーモアの中心となっているのは旅の途中で出会うスティーヴ・ザーン演じるバッド・エイプなのだが、根本的な性格や立ち位置は違えど、人里を離れ1頭で長く暮らしていた点や猿のリーダーであるシーザーの旅の案内人を務める点などは、「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズのゴラムを彷彿とさせる。
ゴラムと言えば、まさに本作の主人公シーザーを演じるアンディ・サーキスの出世役であり、ある意味でバッド・エイプはマット・リーヴスによるサーキスへのリスペクトから生まれたキャラクターと言えるかもしれない。
そして、そのアンディ・サーキスであるが、前2作での演技も実に素晴らしいものであったが、本作における演技は間違いなくオスカー級である。
モーションキャプチャーによる演技は評価はされどアカデミー賞の演技賞候補の対象には現時点ではなりえないだろうが、仮に来年のアカデミー賞の主演男優賞候補にサーキスの名前があったとしても異論を唱える者などほとんどいないだろう。

サーキスの見事な演技によって躍動するシーザーは、本作で今まで以上に魅力的なキャラクターへと進化している。
これまでのシーザーはエイプの理想郷のために奮闘する厳格なリーダーであったが、前作での盟友コバとの対立や本作での悲劇に翻弄され、次第にアイデンティティを失っていく。
完璧な人間像ならぬエイプ像であったシーザーに弱さが生まれ、喜怒哀楽や葛藤が加わり、憧れや畏怖の対象である完全無欠のヒーローではなく非常に人間らしいもといエイプらしい姿が描かれている。
これにより今まで以上に感情移入のしやすいキャラクターへと変化しており、だからこそシーザーが絶望から復活するシーンで感動が生まれるのである。

シリーズ3部作において本作がシーザーの内面に最もフィーチャーした作品であるのは間違いないが、とは言えこれまでのシリーズがシーザーと相対する誰か(1作目ではシーザーと飼い主のウィル、2作目ではシーザーとコバ)を中心に描かれて来たのと同様に、本作でもその役割を果たすウディ・ハレルソン演じる大佐が登場している。
この大佐はシーザーのアイデンティティを崩壊させた原因であり、さらに人間の業を凝縮させたキャラクターとなっている。
人間の邪悪さ、醜さ、そして悲しさを体現したキャラクターであり、シーザーと大佐を中心に描かれるドラマの見応えは抜群である。
これまでシーザーの指導で生き延びてきたエイプたちは、本作で唯一絶対のリーダーを失い、自らの手で道を拓く決断を迫られる。
前2作はシーザーだけをヒーローとして切り取っていたのに対し、本作ではシーザーの側近たちにも光が当てられ、まさにエイプたちのスローガンである“エイプは団結すれば強くなる”を体現した作品となっている。

本作における象徴的な存在はアミア・ミラーが演じた口のきけない少女ノヴァである。
マット・リーヴスの代表作「モールス」において主人公と少女がモールス信号でコミュニケーションを取ったように、本作でも少女は会話なしでエイプたちとコミュニケーションを図っている。
ノヴァはオリジナル版「猿の惑星」での人間の惨状を示唆する存在であり、またある意味でエイプと人間の支配関係を決定付けた存在でもあり、人間とエイプからすれば神でもあり悪魔でもある。
「お前は人間でもエイプでもない、ノヴァだ」のセリフからも分かるように、ノヴァは種族を超えた神的な立ち位置にいるキャラクターであり、本作において極めて重要なキャラクターであるのは間違いない。

大佐もとい人間の業を見せつけられる展開は気分的には非常に重苦しいものの、思わぬサプライズで幕を開けるオープニングのアクションから作品のエンジンは全開で、そこにシーザーの喜怒哀楽を含んだドラマも加わり、実に見応えのある作品へと仕上がっている。
人間とエイプのすべてを描き切り、シーザーの人生を描き切った文句なしの傑作である。
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