きゃんちょめ

残穢 住んではいけない部屋のきゃんちょめのレビュー・感想・評価

-
【なぜ幽霊譚は不可解か】

「恨みを持って死んだ人はみな幽霊になってその場に残る可能性がある」と仮定する。その場合、恨みを持って死んだ縄文人の幽霊が目撃されるはずである。しかし、目撃された幽霊は多くの場合、服を着ているし、その被服がマンモスの毛皮であったりすることがあまりにも少ない。つまり、ただでさえ幽霊が目撃される絶対数が少な過ぎるだけでなく、目撃された幽霊たちの服装が近現代の服装に偏りすぎている。このことは最初の仮定を維持すると説明がつかない。ということは、最初の仮定を取り下げざるをえない。

もしも「数百年経てば恨みの対象にも寿命や風化の影響が及んで恨みが必然的に晴れるから」というのが近現代の幽霊ばかりが目撃されている理由だとすれば、幽霊は数百年待てばなにもしなくても消えると認めたに等しい。幽霊は刻々と、古いものから順に消滅していっているのである。だから、あなたが恐れている幽霊も、いずれは自然に消える可能性が高い。

さらにその場合、「幽霊の存在は現実世界にある恨みの対象となっている人や物体に相関してのみ初めて言える」ということになる。ということはなおさら、現実世界内の人や物体以上の実在性を幽霊に与えるのはおかしい。つまり、怖い幽霊よりも怖い人や怖い物を警戒したほうがよほど穏当だということになる。たとえば、怖い幽霊がそんなに怖いなら、その幽霊の存在を可能にしている怖い物体を破壊すればいいのである。ここでの文脈上、縄文人の幽霊が目撃されないのは縄文人の幽霊が恨みの対象としている物体がどんどん風化しているからなのだから、そのような特殊な物体を制御すれば、幽霊も制御できることになる。つまり、幽霊は人に制御されうることになる。地震は人に制御できないので地震の方が怖いと言われかねない。

また、幽霊に恨まれているのが他人であればその他人に対処することで幽霊に対処することができる。幽霊に恨まれているのが自分の場合には次のような対処ができる。幽霊はほぼ間違いなく視覚によって存在を記述されており、それならば360度のみならず上下からの視覚情報さえ許すのでなければならない。幽霊は近づいたら大きくなるはずで、超接近したら最後は網膜全体に映り込むほど大きくなるのでなければならない。それが視覚の構造である。日本の幽霊は触覚的な抵抗がないことが多く、すると透過可能であるはずで、すると必然的に幽霊内部からの視覚情報もあるということになる。しかし、幽霊は「見える」と言われているくせに、そうした幽霊の視覚的検証を行うものがほぼなく、もし内部に至れば消えると目撃者が言うのであれば、幽霊を追い払う一番良い方法は見えている幽霊にどんどん接近することだということになる。

稀に聴覚による幽霊体験を述べる人がいるが、これまたなんらの検証もなく、「どこからともなく聞こえる」などと言って証言は曖昧にされるだけなのだが、たとえばどこかの心霊スポットで聞こえるというならば、必ずそれはどこかの方向から聞こえているはずで、それならばやはりどんどんそちらの音源方向に接近していけばよい。いずれにせよ、最低限のこうした視聴覚的検証もせぬまま、その実在だけを主張するのは、根拠が不十分である。

アンパンマンが実在するということが認められるためには、アンパンマンに会ったらどんなやつだったのかとか、アンパンマンの内部はどうなっていたのかとか、アンパンマンの身体はその内部からや360度のどの角度からどう見るとどう見えたのかなどといった複数ソースからの証言が記述され蓄積されなければならないはずなのに、幽霊についてはそのような存在様態にかんする証言が蓄積されずとも実在を主張できるというのは、明らかに不公平である。ピカチュウやアンパンマンについては、つかのまの視覚体験や聴覚体験だけでは決して実在を認めてもらえないのに、幽霊は実在まで認めてもらえるとしたら、それは不公平だと言わざるを得ない。

このように、幽霊の不存在は証明できないとはいえ、幽霊実在論は根拠が不十分であるとは言えるのである。面倒を避けるために明記しておくと、私はここで「幽霊など存在するわけがない」と言っているのではなく、「「幽霊が存在する」ということを誰もまともに主張できていない」と言っているのである。

また、「幽霊というのは実は何らかの強い罪悪感を抱えた現代人が見てしまう幻覚だから、それゆえに近現代の幽霊しか目撃されないのだ」という解もありえるだろう。しかしそれならば、そのときその論者は幽霊は観測者のせいで観測者にだけ見える幻覚だと認めてしまっており、幻覚ならばその観測者にアプローチすれば済む問題に過ぎない。もしも自分が観測者ならば、その罪悪感を適切に解消していけばいいのであって、そのときその観測者が幽霊の実在やその恐怖を言い立てるには、根拠があまりにも不十分である。

最後に、心身二元論を前提しなければ身体は死んでも心は残るという主張はできないと思うのだが、心身二元論にはさまざまな問題があることは周知の通りである。
きゃんちょめ

きゃんちょめ