さわら

ハッピーアワーのさわらのレビュー・感想・評価

ハッピーアワー(2015年製作の映画)
4.5
言ってもわからないこともある、言わなくてもわかることがある。いくらお腹に耳をつけても、いくら額を合わせても、本当の気持ちはわからないし、だからこそ誰かと触れ合いたい。40手前女性特有の、いや28歳の小生や思春期の少年少女たちも、同じことを思っているのかもしれない。
たったひとつのボタンのかけ違いで服が着れなくなるように、小さなきっかけが大きなズレを生む。人間関係もそんなようで、1部の「重心ってなんだろう」という怪しすぎるセミナーの冒頭で、妙なバランスで立っていた、あの1脚の椅子のように不可思議で儚いものなのかもしれない。背中合わせのプログラム、寄りかかって信頼して、やっと人間立つことができる。しかし疑うあまり、背中を預けられないあまり、なかなか立つことが出来ない。人間関係もそう。悲しかった、とにかく悲しかった。

小津安二郎監督のように、真正面から人を捉えるショットの多用。そうかそんな顔をしてたのか。目のバランスの悪さ、目尻のしわ、鼻の穴の大きさ。鏡をみてもどこかしら歪んでいると言われる自分の表情、決して自分の顔は自分だけでは確認できないという。そこからもそう、人間は社会的な生き物で誰かとの“関係性”で生まれるのに、それを奪われた紐なし凧のように浮遊感のある映画であった。
「5時間17分あっという間でしたー」なんていう感想をよく見る。ウソだろ、なんて斜めにしかものを見てなかった自分が恥ずかしい。本当に短く感じる。いや、この女たちの闇の深さや男たちの無自覚さを描くのに、この尺は適切に感じるからこそ、5時間17分に充実感すら覚えるのだ。

鑑賞後、心に「進むも地獄進まぬも地獄、どちらも地獄なら進んだほうがいいんじゃない」なんていう桜子の姑さんのセリフが身にしみる。どんなに酷だって辛くたって、進んで歩いて僕たちなりの“ハッピアワー”を求め探すしかないのだ。
ここまで書いて、この映画に占めるのは“悲観”“諦観”なのかと思うかもしれない。否、むしろ“希望”。山を登れば屋上に登れば、実はきっと海すら臨めるほどの景色が待っているのだ。悲しかった、とにかく悲しかった。でも生きたいと思った、強く思った。