河

ハッピーアワーの河のレビュー・感想・評価

ハッピーアワー(2015年製作の映画)
5.0
トンネルを抜けた先に広がる霧で見えない神戸の景色、それを展望台から眺める4人の姿から始まる。
ワークショップ、朗読会と4人の女性達に対して監督によってセッティングされたようなイベントが2つあり、ワークショップの主催者である鵜飼とその妹、朗読会の小説家は監督の差金として、登場人物達を導いたり惑わしたり物語を動かす存在、『不気味なものの肌に触れる』で人間の深部の比喩として出てきた川のその氾濫を起こそうとする存在となっている。
ワークショップでは臓器という深部から人を知ること、重心を合わせるという互いの身体レベルでのコミュニケーション、朗読会では他人の目から世界を見ようとすること、自分の目から見えた世界に他人の目から見えた世界を入れようとすることが示される。
前半ではそのワークショップでの内容、互いの深部を聞き重心を合わせることを理想形として、裁判の傍聴などを通して、最終的には有馬温泉の旅行でそれが達成される、互いの本音、臓器の音を聞いて重心を合わしあえたように見える。ただ、その旅行後に本当はそうではなかったことが明らかになる。そして朗読会では自分が他人の目で見れていたのか、見れたと思っていいのかという問いが突きつけられる。
中盤で純、桜子の姑が不在になること、監督の差金である鵜飼と小説家の介入によって友人間、家族内でのバランスが崩れる。そしてそれは互いの重心がわかってない、互いの目で見える世界を見れていないことから生まれる。その結果として桜子以外の全員が物理的にも崩落する。不在になる純だけが映画の前半に崩れ落ちており、それを支えていたのが桜子になっている。そのため、桜子は後半では崩れ落ちない代わりに支えるという役割から降りるという話になっているように感じる。そして、その崩落を経由してそれぞれがそれぞれに対して重心を合わせ直し、冒頭と対比的に霧の晴れた神戸の景色眺めるショットで終わる。
合わさっていたように見えた重心が崩れ、他人の視点で世界が見えていたと思っていたらそうではなかったことがわかることの繰り返しの話で、ワークショップでの鵜飼や桜子の姑の言葉のように、関係性においてはそれが地獄のようにひたすら繰り返される、その度相手の臓器の音を聞こうとする、重心を合わせ直そうとする必要があるという話だと自分としては感じた。

朗読会がこの映画の冒頭のシーンと全く同じ冒頭から始まることからも、この朗読会での小説家と生物学者である純の夫との間での対話がこの映画で監督がやろうとしていることをそのまま語っているように思う。それは4人の女性からの目から世界を見ようとすることで、自分の見える世界を世界とすることはそこに含まれる他者を含めた世界自体を貶めることになるからということなんだろうと感じた。
非常に印象的なショットとして監督自身が映画に入ってくる瞬間、電車の連結ドア越しにある種盗撮みたいに役者を撮っていた、見ていた監督がカメラの後ろからカメラを置いてそのまま話しかけにいくような後ろ姿のショットがあり、自分の中でこのショットが一番この映画について現しているような感覚があった。
電車などにいる自分にとっての他者に声をかけて、その他者から見える世界、監督である自分の介入によってその他者におこる感情や行動をドキュメンタリー的に撮ろうとする。そしてその他人の目から世界を見るということはこの形式的な意味でも、この4人の映画としても共通する主題になっている。素人俳優を起用したっていうのもそれが理由なんだろうなと感じた。
人間の深部を見つめるという点ではロメールと共通するように思うし、『コレクションする女』のラストショットのような男が崩壊するものすごく映画的な気持ちよさのあるショットがある。また、監督の介入により変化していく人間関係をドキュメンタリー的に観察するっていう方法はジャン・ルーシュと共通する。ジャン・ルーシュが『私は黒人』や『人間ピラミッド』、『ある夏の記録』などでその方法を用いて行おうとしたことは、異なる背景や文化、価値観を持つ他者を目の前の事象を通して理解しようとすること、それら他者の間での共生の可能性を映像として示すことだったと自分の中で理解している。

『PASSION』を見た時に本音とハッタリ、嘘含めた建前、それがどちらが本当かもわからないっていう話だと理解していたけど、その本音や建前っていう枠組みよりも深い自分でも気づけない、言語化できない人間の深部みたいなものを汲み出していこうとする監督なんだろうなと感じた。『不気味なものの肌に触れる』はその深部が社会に対して洪水として氾濫する予感についてで、深部におけるコミュニケーションという意味でワークショップの内容とダンスが重なる。『寝ても覚めても』はそれが氾濫する話、『ドライブ・マイ・カー』は自身や他者の深部を言語化していくプロセスについてのロードムービーで、『偶然と想像』はその深部において繋がる(言語によるセックス)話だと自分の中で理解した。そしてこの映画にはその全てが含まれている感覚があった。

長々と書いたけど、朗読会以降の現実から遊離してくような浮遊感やそれがラストに現実のものとして着地する感覚、そこに現れるコメディ的で象徴的な絵面や出来事などの映画的な良さ、家族含めた4人自体の段々と日常の歪みが揺れに繋がっていく感覚、その中にある会話の感触など、自分が感動したところは言語化できないところにあるようにも思う。ラストの桜子と夫の外に出て洗濯を干すことを中心にした動きの変化がありつつのあの会話、そしてその後の崩れ落ちる夫のショットが本当に良かった。
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