河

アンナの出会いの河のレビュー・感想・評価

アンナの出会い(1978年製作の映画)
5.0
電車で西ドイツから故郷であるブリュッセルを経由してパリに向かう映画監督がその土地土地で人と出会っていく。めちゃくちゃに好きな映画だった。

西ドイツで出会う1人目の男性は妻が娘を残したままトルコ人と共に逃げており、母親として主人公を迎えたがる。そして、2人目の女性は幼馴染であり元パートナーである男性の母親であり、息子と主人公が婚約することを望む。1人目の男性は親友が反社会としての烙印を押され疎外されており、2人目の女性は戦争によって夫が怒りやすく変貌してしまう。2人とも背景に戦争を抱えていること、そして今いる場所に何かが欠けている、何か満足できていないことが共通する。そして、それを埋める、変化を起こすための外部者として主人公を自分たちの家族へと迎え入れようとしているように見える。主人公はどちらも拒絶する。

そして、西ドイツからブリュッセルへ向かう電車で出会う3人目の男性は、ベルリン出身で世界中を転々としているが居場所を見つけられていない。そして、自由の国であるフランスを理想の場所として、パリに向かっている。ここで、この男は移動し続ける存在として
主人公と近い存在になっている。

そして、故郷のブリュッセルで4人目として母親に会い、自身の女性との経験を話す。また、以前に会った男がベルギーは豊かな国だと話していたのに対して、ベルギーにいる両親の事業が不景気によって傾きかけていることが話される。
そして、ベルリン出身の3人目の男が自由の国だと話していたフランスで会う5人目である男性は、仕事中毒であり飲んで食べてセックスしての繰り返しで人生が終わってしまうような、ルーティンに閉じ込められたような生活を送っている。

そして、国を跨いでさまざまな場所に移動を続ける主人公には、様々な場所に関係性を持つ人たちがいて、主人公を求めている人が何人もいる。しかし、主人公にとっての居場所、理想の場所はどこにもない。一度関係性を持った女性の住むイタリアがそれだったのかもしれない。それを表すように、ひたすらさまざまな場所からのさまざまな人からの留守電を無気力に聴き続ける主人公で終わる。そして、マネージャーからの電話によって主人公はこれからも移動し続けないといけないことがわかる。

同じ場所に住み続けている人も、移動し続けている人も今の場所に幸せを感じておらず、他によりよい場所があると考えている。しかし、移動を続ける主人公はそのよりよい場所と言われる場所そうではないこと、そもそも幸福になれる場所がないことを知っているように感じられる。

幸福になれる場所がないのは、その背景に戦争があるからかもしれないし、資本主義社会、消費社会が発達した(幸福の値段が上がってしまった)からかもしれない。さらに、ソ連アメリカそれぞれの主導によって発達した東西ドイツがどちらも幸福を得れていないことから、資本主義の先にも共産主義というオルタナティブにも幸福がないともいえる。それが出会う人々から少しずつ話されていき、その現在、そして未来での幸福の期待できなさ、絶望がパリの男の「人々に何か良いことがおこれば」というセリフに集約されるように感じる。

そして、そのパリの男のセリフに対して、主人公は2人でベッドの上で抱き合って死んだカップルの存在に対して、ひたすら同じ労働を繰り返す人の歌を歌う。その抱き合って死んだ2人は1人目の男が話したトルコ人と逃げ出した妻と呼応する。この映画の中で唯一幸福を実現できたのはその2人なのかもしれない。ただ、その歌詞の中で2人は現実世界で幸福を叶えることは出来ず、死ぬことによってここではない場所に行き着く。それによって、現実世界には理想の土地、居場所、2人で幸福になれる場所がもうないような感覚がある。

車や電車が舞台であり主人公がそれらから遠く離れることがほとんどないため、映画を通してホワイトノイズのように車や電車の音が鳴り続けている。
主人公がホテルでレールの長いカーテンを左から右へと開ける動作、その音がその後続く電車の移動とその音を示唆するような形になっている。そして、電車に乗っていない時もカメラの横移動により主人公がひたすら移動させられる感覚が強くなっていく。
また、その後もカーテンや扉が何度も左右に開かれていく。それが主人公のその定住できない落ち着かなさを表しているように見える一方で、ドイツの分断を表しているようにも見える。3人目の男性と左右に分離される電車を眺めた後、ドイツを離れて以降その左右に分かれるモチーフが消える。

基調となる横移動に対して、シンメトリーな画面や左右へと分かれるショットが挟まれることによる快楽がある。
もう一つ特徴的なのが、移動中の座席に座る主人公を正面から捉えたショットで、反復される度に主人公の表情と光のニュアンスの違いによって違う感触がある。そして、それに続くように主人公の主観での車や電車からの景色の没入感のあるショットが続く。この2連続のショットによって主人公の孤独を当事者のように感じさせられる感覚がある。主人公の孤独を客観的に無理やり見せられていたような『ブリュッセル1080〜』とは真逆の感覚。映画を見る観客は観客であると同時に映画内の人物に同一化する。であれば『ブリュッセル1080〜』や『私、彼、彼女』は同一化を拒み観客が登場人物に対して他者であることを突きつける映画だったが、この映画は逆に観客をアンナと同一化させる。
地に足のつかないようなカメラの横移動、そして何か人工的で違和感や緊張感のある不穏な画面が続く中で移動中の窓からの景色、そしてその移動音のみが安心感を持っている。それは主人公もそうだったんじゃないかと思う。

光が印象的に点いては消えてを繰り返す映画でもあり、特に最初の場所での2段階で光が消えるホテルの入り口のショットが非常に良かった。また、パリのホテルでのテレビの点滅は『ブリュッセル1080〜』のリビングの道路からの光を思い出した。主人公の不安定さ、これからくる破滅を示唆するような光。

居場所のない牢獄を撮り続けた監督なんだと思った。帰属できる場所のない孤独感、そしてそれがもう一生現れない、それに対して何もできない、囚われたままでいるしかないような感覚がある。その中でもこの映画は特に心に残った。
河