レインウォッチャー

アンナの出会いのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

アンナの出会い(1978年製作の映画)
4.0
シャンタル・アケルマンの映画が強いる「静けさ」の正体とは、一体何なのだろう。
そこに置かれた人物を見据え、まるで指一本間違って動かすことで、今にも襲い掛からんと息づく何かに捕まってしまうことを恐れるかのように、目を逸らさない。単に寂しい、とか虚しい、とかを超えた、厳しさを含んだ均衡。たとえば、ヨガや拳法の型みたいに。

映画監督のアンナが、仕事の旅先で何人かの人々と共に過ごす。男・女、知人・他人、あるいは母親。
ところが、その誰との時間も、彼女に充足感を与えないようである。時には体を重ねてさえ、表情は硬く、瞳は冷たい壁と過行く車窓の風景を同等のもののように見つめている。そして、独りの自宅に帰り着く。

それだけの映画だ。包む色調は常にグレイ、薄曇り。それだけの映画が、しんしんと骨に染み渡る。
あの強迫観念に駆られて削り過ぎた鉛筆の芯のような怪作、『ジャンヌ・ディエルマン』を解くキーが、今作にあるのかもしれない。

アンナと接する誰も、彼女を強く責めたり否定したりはしない。しかし、うっすらと「あるべき・一般的な女性像」のようなものを彼女の前に置いて、(おそらく)無意識のうちにその不適合を指摘しているようだ。
映画監督として自立し、同性愛的な嗜好を自覚するアンナ。彼女の姿はアケルマン監督の現身と考えられるけれど、常に戸惑いの中にある。国境をまたいで複数の都市を行き来してなお、自分にフィットする器がどこにも見つからない、そんな居心地の悪さを抱き続けているのか。

その立ち位置は、冒頭から明確に示される。駅に着く電車、降りてくる乗客たち。人の群れは吸い込まれるように中央の出口に入っていくけれど、彼女は独りその流れから抜け出して、ホームで電話をかける。群衆をコースアウトした者の孤独だ。
また、劇中ではシンメトリーの構図が多用される。街中やホテルの部屋など、執拗に構成された画面は幾何学的であると同時に画一的・閉塞的ともいえて、彼女の寄る辺なさを浮き彫りにする。

そして、今まさに公開されているいくつかの新作映画の萌芽を見つけられる点も興味深い。

壁を向いてベッドに座り、こちらに背を向けて佇む図は『アフターサン』。

ホテルの廊下を歩くアンナ、横切る部屋部屋に一瞬パラパラ漫画みたく覗くベッドメイキングの風景は『TAR』にそのまま引用されている。

いずれも、まったく異なる角度ではあるものの「孤独」を取り扱った傑作だ。『アンナの出会い』は彼らの母であり、現代までさまよい続ける癒されぬ魂の源泉なのかもしれない。

映画監督という職業人を主人公と示しながら、彼女の作品について劇中で殆ど触れられないのも珍しくないだろうか。アケルマンにとって、映画とは何だったのか。癒しとなることはなかったのか。そんなことを考えずにいられなかった。