露木薫

蝶々夫人の露木薫のレビュー・感想・評価

蝶々夫人(1955年製作の映画)
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2020.02.19@シネ・ヌーヴォ

八千草薫さん演ずる蝶々さん。歌唱はオペラ歌手による吹替である。
可憐でいたいけな少女から、結婚し子を産み育て、一家の主となり、若さと無知故に信じ続けていた愛が裏切られ、自らの道を決する大人の女性になる迄を演じている。終盤の凛々しさがとても印象に残った。

実際の舞台で演じられるオペラでは、何よりも歌唱の実力が大切なので、なかなか蝶々夫人がいたいけな少女には見えなかった。しかし、八千草さん演ずる蝶々さんは、当時の日本人女性の立ち居振舞いや奥ゆかしさや意志の強さなどが伝わって来て、初めて『蝶々夫人』という作品の根底に流れるものについて考えることとなった。

ピンカートンが、日本で生活する間だけの相手を求めたことや、正式な婚姻届を出していなかった可能性があること、それなのにまだ幼い蝶々さんは生涯添い遂げる結婚をしたのだと思い込んでいたことなどを考えた。勿論これらが史実だと思い込んでいる訳ではなく、ピンカートンも創作の人物だということは承知している。
東洋人に対する西洋人の目や姿勢というものは、人にもよりけりであるから一概には言えぬものだが、彼らに比べると体格が小柄で顔の彫りが浅いことや肌の色などから、侮ってしまうこともあったのかもしれない。
ピンカートンが蝶々さんを人生の束の間の相手として扱い、きちんと別れずに誤魔化して自国で本妻を迎えたこと、後から蝶々さんが待ち続けていたことや子供を1人で育てていたことなどを知り、後悔し、対面して自分の口から事実を打ち明けられず逃げてしまうことなどから、そのような東洋人蔑視が根底にあったのだろうと、この映画版の鑑賞で初めて考え至った。体格の良い西洋人が演じる蝶々夫人を観ていては、このように感じることはなく、このオペラ作品に込められた人類文化的な背景を私が考えることもなかったであろう。観て良かったと思う。

人種や民族に対する差別感情というものは、徐々に国際マナーとして規制されては来ているが、人々が規制に従っているだけで、根底においてその差別感情がどこから生じているのかということに目を向ける機会は少ない。人間の歴史において、何故、皮膚の色で貴賤を判断してしまったのか。目鼻立ちで美醜を判じてしまうとき、その基となっている感覚は何なのか。洋画や巷に溢れる広告などから、日本人は西洋人を理想として見てしまっているのではないだろうか。西洋人と触れあう前は、美醜や貴賤の価値判断の基準は今とは異なっていたかもしれない。色が白く、鼻が細く高く、目がぱっちりしていて、顔は小さく、手足が長く細い...このようなものが美人の条件だと、知らず知らず私も思ってしまっていて、洋画を観るほどに、そのような美人に憧れるようになって、自分の東洋人的な生まれながらの特徴を苦々しく思いさえする時もあった。しかし、東洋人には東洋人なりの美しさがあるのだと、それは見かけだけではなく、立ち居振舞いや表情などと内面の心の在り方や日頃の生き方などが相まって表出した結果として人々に美しいと思われるのだと、日本の昔の役者さんたちを見ていると考えさせられる。日本人として己の容姿を恥じずに心身のほんとうの美しさを磨いて、大人の女性になりたいと思った。
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