真っ二つに砕かれてしまった2016年のアメリカで、人種や、個性や、ライフスタイルのサラダボウルであるアメリカを語ること。いや、正確には「かつてサラダボウルと呼ばれた」アメリカの、ある筈もない幻影を語ってみせること。リンクレイターが何を意図してこれを撮ったかはほとんど重要ではない。ただ、この題材が小さくない意味を持ってしまったことだけが重要だ。
実際、ここにあるのは特定の中心を持った調和などではない。ゴロゴロの具材が、互いを潰すことなく、ただゴロゴロのままかき混ぜられる意味での「United」である。互いにまったく異なる「僕たち」として今ここを生きていることに、劇的な意味も必然性もまったくないこと。それでも結果的に出会ってしまった人たちと、あるいは自分と、彼らはいやいや言いながらも生きている。覚めつつ、熱しつつ、でもこれが人生なんだと生きている。
そして、ゴロゴロとぶつかり合った上での「調和」の意味を両価で体現しているのが、音楽だ。ブギー、ファンク、ディスコ、ウェスタン、カントリー、MTVロック、パンク、サイケデリック・ロック、それにヒップホップと、白も黒もとっ散らかった選曲で、途中、主役の男が(リンクレイター映画らしく、いささか説明的に)言及してしまうように、そのフラットさにおいてポストモダンの夜明けといった感じである。逆を言えば、こういうことだろう。「カウボーイが作った偉大なアメリカは1980年にはとっくに死んでいたよ」と。
映画は、しかし、「カレッジ(=大学デビュー)もの」という陳腐な体裁をとりつつ、また、陳腐さの仮面の下で時おり自家中毒を起こしながらも、何とかその役割を徹して(=踊って)いる。一見、ただの乱痴気騒ぎであり、だらしのないノスタルジアであるが、カメラが写し取って来た世界の美しさは、しかし、過去と言うよりは今にも崩れそうな儚い夢のようだ。その演出意図を考えると、泣けてくる。抵抗か、諦めか、もしくはその両方。