なっこ

永い言い訳のなっこのネタバレレビュー・内容・結末

永い言い訳(2016年製作の映画)
3.3

このレビューはネタバレを含みます

欠けたピースを埋めようとしてはじめて、自分に欠けていたものを思い知らされる。
女はいつも逃げない。けれど常に自分がここから居なくなったら、この人は、家族は、どうなるのだろう…と考えている。予期せぬ事故“死”という形で、鮮やかに人生の幕引きを行った“女”。その存在を失うまで、人生において、自分の家族にとって、その“女”の存在が如何なるものか、一度もまともに考えたことなどなかったと気がつく、自分勝手な“男”の話。

男と女の関係は、二人でひとり。鏡のように対をなす存在、それは互いの男性性と女性性を補い合って役割分担することで、バランスを保とうとする。
その関係が終わるときは、どちらかが、成長して、相手の中にもう自分の愛する部分がないと気が付いたときだ。

夏子は、もう幸夫の中には、自分の欠けているものを埋めるだけの要素がないことに気が付いていた。
いつまでも自分のことしか愛せない“男”、それは幸夫が自分の弔辞がどのように世間に受け入れられたのかego searchをする場面ではっきりと分かる。
だから、夏子は自分の家庭のように親友の家庭に関わり、職場でも、後輩に慕われるほどきちんと自分の世界を創り上げていた。そこに“先生”、夫の幸夫が、入り込む隙間などなかった。
夏子はそうやって他人の家庭で自分の女性性を、職場で男性性を全うしバランスを保っていた。

“もう愛していない”それは、かっこつきのメッセージ。
“もう(あなたをかつてのようには)愛していない”。

幸夫に求めていたものを求め続けることを夏子はとうに諦めていた。

幸夫がもがき得ようとしたものは、夏子が得ていたものだったのではないだろうか。この夫婦は実は、表と裏。
母親の欠けた家庭に入り込み、母親代わりを務めることで自分の中に欠けていたものを埋めていく。それは、愛を受け止めてくれる器、“家庭”と呼べるものだったのかもしれない。

幸夫は、夏子亡き後も“幸夫くん”と呼ばれる場所を探していたのかもしれない。それは、夏子の匂いのするところ。彼のそばにはもう“なっちゃん”はいない、“なっちゃんがいればいいのに”と言ってくれる人がいない、一緒に悲しんでくれる人がいなかったのだ。それは、本当の意味で甘えや弱さを含めて自分をさらけ出す人がもうどこにもいなかったという意味なのかもしれない。

自分が周りの目を気にして創り上げてきた自己像は、この隙間を埋めることに何の役にも立たない。

“自分を愛してくれている人の手を離してはいけない。離れるのは、一瞬だ。”

妻を失った二人の男が抱えていたのは、自分の方が死ぬべきだった、という言いようのない痛み。
自分は周りの人間を誰ひとり幸せにしていなかったことに気がつく。愛しても愛しても受け止める器が小さければ零れ落ちる。それでも愛して、日々を生き切った女たち。これは、それに気が付かない男たちへの復讐のストーリーだろうか。いや、そうは思いたくない。

“もう愛していない”は、“今の今まで、私はあなたを愛した”という確信。
それでも、私はあなたを愛した、そんな強い気持ちで女は生きていたのだ、私はそういう風に思いたい。
なっこ

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