このレビューはネタバレを含みます
こんな風に人に感情をぶつけられること、言いたいことを言えることって、一種の才能だと思う。
そうやって生きてきたおかげで人を失ってきた俺にとっては、嫌われてしまうことを恐れて、できないんだよそんなことは。
それが好きな人ならなおさらで、その人を失いたくないから、消極的な言動をとってしまうのが常。
だからいつも一歩前に進まないし距離も縮まない。
頭ではわかってるけど、できない。
だから自分に素直に生きていることやそんな人がそばにいることが、ただただ羨ましい。
2回目。
「悪いけど、後片付けお願いね。」
まるで自分が死ぬことをわかっているかのようにそう言い残した彼女は夜明けのバスの中で何を思ったのだろうか。
葬式でも泣き真似をし、髪型を気にし、家に帰っても自分の評価のことばかり。妻の死をまるで他人事のように振る舞う津村。
他人のことを考えられる大宮を対極として登場させることで、津村の欠点をあぶり出し、
津村は小説のネタになるから、子供の面倒を見るようになるが、その中で自分に足りなかったものに気づく。
人からどうすれば信用されるのか、他人のことを本気で考えてやることで信頼が得られることを偽善から教わると同時に、人から必要とされることに快感を覚える。
「子育ては免罪符」
自分が悲しみと、そして自分自身と向き合っていないことに気付かされる。
それをきっかけに、自分自身と向き合うため、ドキュメンタリーの仕事を受けるが、その直前、妻から愛されていなかったことを知る。
ドキュメンタリーの嘘を作り出すことに違和感を覚える津村。
自らの行動と照らし重ね合わせ、嘘で塗り固められた自分に憤りを覚える。
子供はいつだって素直で純粋で正直。子供といるときは本当の自分でいられる。
自分が必要とされなくなることを恐れ、荒ぶる。
言いたくないことを言い、他人のことを考えられない自分に苛立つ。
「君とはぜんぜん違う」
大宮のようにはなれないと改めて感じてしまう。
父のようになりたくない真平と大宮のようになりたい津村。
大宮が事故を起こしたことをきっかけに、いよいよ本心から動く。
本心から動いて、本心から出た言葉は、人に刻まれる。
「後片付け」とは彼女の身辺のことではなく、津村自身のこと。
そして最後に、自分の後片付けが済んでから、しっかりと彼女の後片付けもする。
・竹原ピストルがいい。
・津村がスワンボートに乗って桜が散る池をゆくシーンはエモかった。意味はよくわからんかったけど。
意味がわからないというのは、意味がないのか、理解力がないのか、気づきが足りないのか、予備知識が足りないのかわからないけど、最後に関しては大衆映画としてのあり方ではないのかなとも思う。
・何書いてるかわからなくなってきたけど、映画なんて音楽と一緒で、時、場所、感情、いろんなものに左右されるからこんな戯言は誰の参考にもならないのである。保険。