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バービーのambiorixのレビュー・感想・評価

バービー(2023年製作の映画)
3.5
(主に女の子の)映画ファンのオールタイムベストにもしばしば挙がる『レディ・バード』や『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』でおなじみグレタ・ガーウィグ監督の最新作。しかし今度の『バービー』は、前2作とはうってかわってファンタジー世界を舞台に繰り広げられるブラックコメディということで、製作発表の一報を聞いた時には、グレタにビッグバジェット映画は荷が重いのではないか、持ち味が死んでしまうのではないか、と懸念したのですが、蓋を開けてみれば多少の紆余曲折はありながらも世界中で大ヒット。先ほど読んだニュースによると、2023年に公開された映画の中で世界最高の興行収入を記録するとともに、なんとワーナー映画の歴代興行収入記録まで塗り替えてしまったそうです。なんだけど、結論から言っちゃうと、俺には合わない作品でしたねえ。でもこれはしゃーないのかな。彼女の映画はどれも、本編の内容と観客自身の豊かな人生経験とをリアルタイムで擦り合わせながら楽しむタイプの作品なので、俺のような実社会に微塵もコミットできておらない粗大ゴミのような人間にはいまひとつ刺さりにくいのかもしれません。
冒頭、見ているこっちが恥ずかしくなってくるぐらいにあけすけな『2001年宇宙の旅』パロディに度肝を抜かれます。女児に模範的な母親としての役割を教え込むための赤ちゃん人形で遊んでいた女の子たちが、突如現れたバービー人形=モノリスに触れることで進化…と言うと角が立ちそうなので、感化ぐらいにとどめておきますが、この場面はグレタ・ガーウィグの映画に一貫して流れる「社会の中で良しとされる通念に抗う女性」のテーマを可視化すると同時に、1959年に発売されたバービーなるおもちゃの登場がいかにセンセーショナルな出来事であったか、ということを観客に一発でわからせる仕組みにもなっています。タイトルロゴに続いて映し出されるのは、どぎついピンクカラーの意匠に彩られた通称「バービーランド」。ここではバービーが大統領をつとめ、バービーがノーベル賞各賞を受賞しまくり、バービーがドカタになって肉体労働に勤しんでいるなどする、いわゆる『大奥』のようなジェンダーの役割が反転した世界。一方で、バービーのツガイとして作られた男のケン軍団はというと、文字通りバービーの添え物のような扱いを受けているのですが、本人たちは満更でもなさそう。バービーランドと隣り合う現実世界で起きた異変により両者に裂け目が生じてしまい、バービー(マーゴット・ロビー)とケン(ライアン・ゴズリング)とが異変の原因を探る旅に出かけるあたりから物語は大きく動き始めます。
現実世界のシークェンスにおけるアイデアはこれまでにさんざっぱら擦られてきた異星人闖入ものや文化格差ものの作品やなんかと大差ないのですが、本作がユニークなのは、バービー人形がもつ(と思われていた)高邁な理念やアイデンティティといったものを徹底的に洒落のめし、相対化していくところにあります。バービーと初めて対面した中学生の女の子サーシャが「あんたはフェミニズムの発展を50年停滞させた戦犯なのよ」と言ってのけるくだりはきわめて辛辣です。いわく、お前らが「女とはこうあるべきだ」みたいなイデアを提示したせいで、その規範から外れた女性たちが自己肯定感を持てなくなってしまった、と。なるほど、ぱっと見ダイバーシティのユートピアのようなバービーランドに対して俺が息苦しさを感じてしまった理由はそこにあったのか…。陰キャや弱男弱女にはすげえ生きづらそうだもんな、あの世界…。他にも、女の子のためのおもちゃメーカーであったはずのマテル社の重役があろうことか全員男だったりするなど、ブラックなギャグがてんこ盛りでなかなか笑えます。
本作をさらにユニークなもののひとつたらしめているのは、現実世界から男のもっともアカン部分であるマスキュリニティやマッチョイズムを持ち帰ったケンが、男性優位社会「ケンダム」を建国、ジェンダー規範を再度逆転させてみせる後半部なのですが、俺はこの辺から徐々に置いてきぼりを食らい始めてしまった。というのは、Filmarksのレビューで大島育宙さんという方が指摘していることでもあるのだが、本作があまりにも「男と女の二項対立」でもってギャグを組み立てすぎるからなんですね。図式的すぎると。作中で展開されているのはフェミニズムの最新モードだったはずなのに、対象のとらえ方が微妙に古くさくてかつ芯を食っていない。古いといえばギャグのセンスもそうで、マッチョ思想を西部劇風のガジェットに結びつけてからかってみたり、「男は涙を見せちゃいかんのだ」という古き良き男性像を風刺するくだりにいたっては、これが本当に2023年に作られた映画なのか?と思わずにはいられなかった。
世界からつま先立ちを強要されてきたバービーが、はじめて自分の意思で地面に足をつけて歩く、さりげないながらも印象に残るあのラストシーンは非常に感動的で、思わずブワッと来てしまった。と同時に、鑑賞中ずっと抱えていたモヤモヤが一つの疑問の形をとって噴出した瞬間でもあった。すなわち「この映画は救うべき人をちゃんと救えているのか?」という問題だ。本作『バービー』が伝えるメッセージはきわめて明快だと思うんだけども、バービーのようにカッコをつけずありのままに生きることを許された人間が今の地球上にどのくらいいるんだろうか?とも考えてしまう。ましてそれを言うてるのはあの大女優マーゴット・ロビー様なわけで、「いやさ、そらあんたは好き放題に生きても許されるだろうよ。いいご身分だよ」と俺なんかは思ってしまうのだ。その点に関しては作り手自身も後ろ暗さを感じたのか、「あんたが言っても説得力ないでしょw」みたいなエクスキューズめいたナレーションを途中で挟んでくるんだけど、問題を相対化してギャグにしてしまえばその問題は雲散霧消してなくなるのか、といえばもちろんそんなことにはならない。問題をはっきりと認識しているぶんむしろ欺瞞的ですらあると思う。本作『バービー』がやっているのは、裕福な家庭に生まれて何不自由なく育ち、あげく慶応幼稚舎から慶応大学までのルートをエスカレーターで進学・卒業したボンボンが「人間は生まれながらにして平等なんだ」「努力は報われるんだ」かなんか言ってるのと構造的には同じ。それこそ劇中にも出てくるマテル社のCEOみたいなヘドの出る連中の側に与する作品なのだ。この映画は、バービーというおもちゃが抱え込まざるをえなかった欺瞞的な部分をカリカチュアしえぐり出すことによってブラックな笑いを生み出し、それでもって多くの観客をエンパワメントすることに成功している。生きづらさなんざハナから感じておらなそうな多くの観客を。しかしながら一方で、どれだけえぐってもえぐっても取りきれずに残る「多様性の欺瞞」によって俺たちのような社会のクズはかえって疎外されてしまう。本作『バービー』は「バービーの体現する多様性では彼らを救うことはできない」という残酷な事実をあらためて露呈してしまっているように思えてならない。
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