きゃんちょめ

バービーのきゃんちょめのレビュー・感想・評価

バービー(2023年製作の映画)
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【橋本治の「世間の幸せそうな人間は大体バカである」という考え方について】

「Q.すぐに自己憐憫に陥ってしまいます。人の幸せそうな姿が我慢ならないのです。幸せそうな人をみるとものすごく惨めな気分に襲われます。自分だけが不幸ではなく、幸せそうな人たちも人に言えない問題を抱えているのは、理屈では理解できますが、感情では納得できません。 問題の多い家庭で育ち、学校ではいじめを経験し、大学はなじめず卒業、ひきこもり・10年以上の非正規労働を経て去年会社員になりました。「幸せな人生を奪われた」という喪失感が苦しめます。どうすればいいのでしょうか?

●お答えします(回答者:橋本治)

 まず、あなたに申し上げたいことがあります。上から目線かもしれませんが、あなたは立派です。あなたの努力は尊敬に値します。あなたに《自己憐憫》なんかは不要です。あなたは、自分の生き方に胸を張って、誇ってもいいのです。《問題の多い家庭で育ち》というところからスタートするあなたの人生は、現代社会の抱える問題をすべてクリアしてしまった、表彰に値する立派な人生です。「現在」に辿り着けたご自分の努力を、あなたは人に誇るべきなのです。

 誇って、人の模範にもなれるようなあなたが《自己憐憫》に陥っているのは、あなたがまだ寂しいからで、だからこそ世の中の人のありようを誤解してしまうのです。

 あなたの生活圏がどこで、どこにお住まいかは存じませんが、あなたがディズニーランドやディズニーシーの中に住んでいるのでもなかったら、《幸せそうな人》というのはそうそう簡単に見ることは出来ません。世の中の人は生活が結構大変で、そうそう《幸せそう》にはなれないはずで、《幸せそうな人》がいたら、その人はその瞬間バカになっているのです。

「幸せそうな人間はみんなバカだ」なんてことを言ってしまうと、とんでもない悪口のように聞こえるかもしれませんが、「バカ」になっていられる時、人は幸福感を味わっているものなのです。「バカになっていられる」ということは、「余分な心配をなにもしなくてすんでいる」という状態にあることなのです。「ああ、なんにも考えなくていいんだ!」と思ったら、幸福でしょ? もしかしたらあなたは、そんな風に考えたことがないので「そんなバカな」とお思いかもしれませんが、実は「バカ」になれた時、人は幸福なのです。誰彼かまわず抱きついてゲラゲラ笑っている酔っ払いのことを考えて下さい。周りの人間は別として、それをやっている酔っ払いは幸福で、人は「幸福でいられるバカ」になりたくて、酒も飲むのです。だから、あなたが《幸せそうな人》と思う人達は、みんな「バカ」なのです。

「幸せそうな人間はみんなバカだ」というのは、悪口ではありません。でも、悪口になる要素も持っています。もちろんです。

「幸せそうな人間」は、幸せそうなんですから、もちろん幸せです。だから、他人のことなんか考えません。考える必要なんかないんです。だって、自分が幸福だからです。自分1人の幸福に酔っていればいいのです。

 もちろん、世の中には「いつでも幸せそうな人」というのはそうそういません。普段は幸福ではない——めんどくさい問題を抱えてリラックス出来ない人の方が圧倒的に多くて、そういう人が時たま「幸福=バカ」になっていたりします。つまり、世の中の多くの人達は、そんなに幸福ではないのです。ところが同じ世の中には、「私は不幸ではない。だから私は幸福だ」と考える種類の人達もまた数多くいます。そういう人達は、あなたのおっしゃるような《人に言えない問題を抱えている》わけではないのです。ただ「さして不幸ではないから幸福」というだけで、めんどくさいことをなにも考えていないのです。

 あなたは、ご自分のありように即して「他人もやっぱりこうなんだろう」と推測されるのでしょうが、普通の人の内部はもっとシンプルに「なにも考える必要がないから幸せそうに見える」なのです。

 いじめに遭われたあなたですからお尋ねしますが、あなたがいじめに遭っていた時、あなたの周りの人は誰もそのことに気がつきませんでしたか? 「そんなこと考えてみたこともない」とおっしゃるかもしれませんが、あなたがいじめに遭っているということを誰一人知らないでいるとは考えられません。渦中のあなたは「誰かに気づいてもらいたい、助けてもらいたい」と思っていたはずですが、そのあなたが「誰も気づかなかったと思う」とおっしゃるのでしたら、気づいていなかったのではなく、知らん顔をしていたのです。「なにも考える必要がないから幸せそうに見える」という人達は、深い考えなくしてそういうことをします。あなたが《幸せそうな人》を見て、「なんか問題を抱えてるんだろうな」と思って、《理屈では理解できますが、感情では納得できません》とおっしゃっているのは、まことに正しい理解なのです。

「なにも考える必要がないから幸福」系の人達は、そういう自分達の周りに《幸せそう》という高い城壁を築きます。だから、めんどくさいことに対しては「見て見ないふり」も出来ますし、「自分はあいつらに高いところから見下されている」とあなたに思わせて、《ものすごく惨めな気分に襲われます》にしてしまうのです。バカに見下されて惨めな気分になる必要なんか、あなたにはないのです。それなのに、どうしてあなたがそうなってしまうのかというと、あなたの中に《「幸せな人生を奪われた」という喪失感》があるからです。

 若い時に「自分にはあってしかるべき」と思っていたものが手に入らなかった——その喪失感に苦しんでいる人は、とても多いです。人がなにを嘆いて苦しむのかと言えば、その喪失感です。あなただけではありません。そして、それがなぜ苦しいかと言えば、どうにもならないからです。だって、時間は戻りません。戻らないから、それが分かっているから、人は苦しむのです。

 でも、あなたはそのことで苦しむ必要がありません。あなたは《幸せな人生を奪われた》とお思いになりたいかもしれませんが、あなたは奪われてなんかいません。その以前に、あなたにそんなものはなかったんです。だからあなたは苦労をしなければならなかった。あなたのこれまでの苦労は、「ない」という空白を埋めるためにあったのです。つまり、《去年会社員になりました》というあなたは、そのことによって、ようやく《幸せな人生》を得るためのスタートラインに立てたのです。だからあなたは、「まだ奪われてなんかいない」なのです。

 あなたの誤解は、その自分の努力と達成を「たいしたものだ」とまだ捉えられずにいることから起こっているのです。世間の「幸せそうな人間」というのは、ただのバカで、たいしたものではありません。そんなものに騙されて「自分は幸せになれないんじゃないか」と思ってしまっていることが、あなたの失策なのです。

 あなたはえらい人です。人を感動させるだけの努力の人です。おそらくは、そのことをこれまでに人に言われなかったのでしょう。だから私は、そのことをまず初めに申し上げました。これからは、ご自分を卑下されることなく、胸を張って《幸せな人生》をお求めになることです。それをしてもいいのです。胸を張るだけで、チンケな問題はすべて崩れ去ると思いますよ。」(橋本治著『橋本治のかけこみ人生相談』119頁-127頁より引用)

【私のこの箇所に対する解釈】
→⑴「私は幸福ではない。だから私は不幸だ。」と考えるのも多くの場合、間違っているし、⑵「私は不幸ではない。だから私は幸福だ。」と考えるのも多くの場合、間違っている。なぜなら、不幸と幸福とは人生のふたつの極端な状態に過ぎないからだ。そして幸福とは具体的に言えば、「人が何も考えていない例外的状況」のことだからであり、不幸とは具体的に言えば、「毎秒頭がハンマーで殴られているように痛くなる脳腫瘍の場合など、例外的状況」のことだからである。だから⑵「不幸でなければ幸福だ」とか、⑴「幸福でなければ不幸だ」と考えること自体が、どちらも短絡的で、間違っているのである。このことは以下のように考えてみると納得がいくだろう。世の中には⑵のように考えて幸福だと自分でも思っていたりする人がたくさんいる。逆に、世の中には⑴のように考えて、自分を不幸だと思っている人もたくさんいる。このとき、⑵にあたる人というのは、実は「幸福」の意味を捉え損なっていて、幸福とは「不幸がないこと」ではなく「馬鹿になっていること」なのに、そのことに気づいておらず、すぐに思い当たる不幸がないことだけをもって「不幸がない」という誤った意味で「幸福だ」と考えてしまっているのである。さらに、⑴にあたる人も、幸福とは「馬鹿になっていること」なのに、幸福とは「金持ちで美人であること」だとか、強く思い込んでいるせいで、自分は金持ちで美人ではないから不幸だと誤って思い込んでいるだけであって、実際には幸福でも不幸でもないのである。だから、⑴「私は幸福ではない。だから私は不幸だ。」と考えるのも間違っているし、⑵「私は不幸ではない。だから私は幸福だ。」と考えるのも、どちらも、多くの場合、間違っているのである。そして、例外的に悲惨な状況としての正しい意味での「不幸」が身の回りに実際にはよく探せばたくさんあるのに、それについては深く考えないことにしているから実際に「馬鹿(=なんにも考えていない人)」になっていて、だから、この言葉の本当の意味で⑶「私はいまなんにも考えなくていいから幸福だ」と考えている人というのも、世の中にはたくさんいる。⑴と⑵の考えは間違っているが、⑶の考えだけが間違っていないのである。ただ、この⑶の状況にある幸福な人(=しかも自分のことを幸福だと正しく考えている人)というのは多くの場合、酔っ払いのことであり、わざわざ目指したりするものではなく、酒を飲めば誰でもこの状態にはすぐなれるのである。他方で、(深刻な問題があるのに、そこから目を背けることでインスタントに実現できるたぐいの酔っ払いの幸福ではなく)、生活があらゆる意味で安定しており、本当に深刻な問題が実際に何にもないから、本当に何にも考えなくてよくて、だから一瞬ではなく恒常的に馬鹿になれて、それゆえ幸福だという本当の幸福は、すぐになれるものではないが、目指す価値がある。だから、こうした幸せを求めるのが良いし、目指しても問題はない。この最後に述べたような、(深刻な問題があるのに目を背けて⑶のように考えるのではなく)、深刻な問題がないから⑶のように考えることができることを⑷と分類してもいいだろう。これらをまとめると、⑴と⑵は現実を捉え損なっている誤った考えだが、⑶と⑷は正しい考えだということになる。
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