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バービーのJFQのネタバレレビュー・内容・結末

バービー(2023年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

1960年代に「女性の解放」なり「新しい女性の創造」なりが叫ばれてから60年余り。フェミニズムは功を奏したのか?それともボタンを掛け違えたのか?
映画は1959年発売の「女性運動世代」バービーを主役に引っ張り出し、それを問おうとする。

自分の観た感想で言えば、映画は「ボタンを掛け違えた」と言っているように思う。

どう間違えたのかと言えば、(バービー世代の)フェミニズムは、人が「育っていくこと」や「死んでいくこと」を抜きに考えてしまったのではないか?、と。
もっと言えば(バービー世代の)フェミニズムは「人形じゃないと成り立たない発想」だったのではないか、と?
その事を、まさに「バービー人形」を使って言わんとしている。そんなふうに思った。

では、なぜ「育ってしまうこと」や「死んでしまうこと」を抜きにしてしまったのか?

それは「良妻賢母批判」が出発点だったからだと。映画はそう描く。
映画は冒頭、荒野を舞台に、人形で「おままごと遊び」に興じる少女たちを映し出す。少女たちは人形で思い思いに子育て遊びを楽しんでいるが、突如、そこに「2001年宇宙の旅」の巨大石板のごとく巨大バービーが降臨する。

そして「女を母にして家に縛り付けるおままごと人形は捨てよ!」と宣言し、人形を吹き飛ばす。その代わりとして出現したのが、自分のために着飾り、自分のために人生を謳歌するバービー人形だった。

自分は、「女性解放」を謳いながら、なぜバービーはこんなにも女性に負荷をかけるビジュアルなんだろう?と今まで素朴に疑問だった。ハイヒールしかり、細すぎるウエストしかり(実際、バービーをリアルサイズにすると内臓が入らんのだそう、、)。

しかし、映画をみて「そういうことか!」と分かった。つまり「よき母=母ちゃんイメージ」を吹き飛ばすことが主眼だったのだと。

こうして「母ちゃんイメージ」を吹き飛ばしたバービードールたちはピンクとスカイブルーに彩られた「バービーランド」を築き上げていく。

けれど、この時、すでにボタンの掛け違いが起きている。確かにバービーランドでは「女性の可能性」が解放されている。そこでは大統領にもなれるし、ノーベル賞研究者にもなれる。黒人バービーだろうと、白人バービーだろうと望むものになれる。けれど「子育てする母」は描かれない。選択肢から抜け落ちているように見える。

なぜこうなったかと言えば、スタートが「良妻賢母批判」だったからだし、「子育てする母」を選択肢に入れると「自分のために自分の自由な時間を使えない問題」が発生してしまうからだろう。

いや「自分の自由で子供のために時間を捧げる」という選択肢もありそうだ。けれど、そうすると「じゃあ良妻賢母と何が違うの?」と、元の場所に戻ってしまうのではないか?と。バービー世代のフェミニスト達は、そうした無意識の恐怖を持ってしまったんじゃないか。

実際のフェミニズムでも1960年代「産む、産まないは女(わたし)が決める」というスローガンは打ち出された。けれど「産むと決めたとしてどう育てる?」という話にまで行ってなかったように思う。後出しじゃんけんかもしれないが、ここで「父を子育てに巻き込む」という話に行けば、未来は変わっていたのかもしれないとも思う。父も子育てが基本になれば当然働き方も変わるし、働き方が変われば経済のあり方や社会のあり方も変わるのだから。

けれど現実もバービーランドも(すぐには)そっちに行かなかった…。なのでバービーランドは「母」もいないし「父」もいない、という状態になった。いや、楽園に「男」はいる。しかし、彼らは「父」でも「パートナー」でもない。
「海辺になんとなく立っている人」という位置づけになっている(ここは笑った)。

ともあれ。このようにしてバービーランドは「人間が育ってしまうこと」を抜きに建設されてしまった。だから「子育て」もなくなった。
そして「育つこと」を考えなくしたため「死ぬこと」も考えられなくなった。育てば老いるし、老いれば死ぬわけだから。

こうして「時の経過(育って老いて死ぬこと)」を考えないバービーランド(フェミランド?)は「人形でなければ成り立たない国」となった。

そのため現実には「お題目」以上の力を持てず、結局のところ「社長も幹部も全員男」みたいな社会を変えられなかった。どれだけ「女性の思想」を叫ぼうと「箱の中に仕舞われてしまう(お題目を超えない)」状態になった。それが今だと。映画はそう言っているんじゃないか?

それだけではない。「時の経過」を考えないフェミニズムは「時の経過」を考えない「反フェミニズム」をも生んでしまったと映画は言う。

映画では「海辺になんとなく立っている男」だったケンが、自分たち男性の過去を知り反撃を開始する。「今のバービーランドは女性上位社会ではないか?」と。ならば「男性解放!」だと。ならば「新しい男性の創造!」だと。かつてあったという、海辺でギターを弾けば女が「うっとりしてくれる」社会を復権させようではないか(笑)と。

これはもちろん、今ネットなどで基本モードになっている「フェミ批判」のことを描いている。けれど、これも自分には「時の経過」を考えない物言いにみえる。

例えて言うならこういうことじゃないか?
男女が参加する100m走があった。だが、そこでは男が「メッシュの靴」で走るのに対し、女は「鉄の靴」で走っていた。そこで女たちは「不平等だ」と問題提起した。すると、以降、女性たちにも「メッシュの靴」が配られるようになった。
けれど、時が経つと男の「メッシュの靴」はボロボロになった。そのうえ買い替えられる男も少しずつ減っていく。そんな時、男たちはふと女を見た。すると、そこには女性たちに「メッシュの靴」が支給される光景が…
これを見て男は思う。「おい!不平等じゃねえか?」「俺らは自分で靴を買ってるのにさ!」「女性優遇=男性差別だ!」と。

たしかに「ふと女を見た…」以降だけで言えば「男性差別」にみえるのかもしれない。けれど、ものには「経緯」というものがある。経緯(時の経過)を考えるなら、それほどおかしなことは起きていない。だが、時を「輪切り」にしか考えられないと「おかしなこと(男性差別)」が起きているようにみえる。

つまり、フェミ側も反フェミ側も「時の経過」を抜いてしまっていることで、今の男女をめぐるやっかいな問題が起きていると。

だからこそ映画はバービーをアップデートさせるため楽園に「死」を持ち込む。

映画では、バービーが突如「死」を考え始める。すると「お人形のようなプロポーション」が劣化し始める。そして「どうやら自分(人形)の持ち主に原因がある」と思い、楽園を飛び出し、現代社会へ向かう。で、紆余曲折あった後、自分が「子供を産む身体」である事を受け入れ、妊婦として現代社会で暮らす…というストーリー展開がとられる。

つまり「人間は子供を産んで育てる」ということから逃げずに、もう1回フェミニズムを初めてみようと。フェミニズムが箱に仕舞われないようにするために…。そういうメッセージとともに映画は幕を下ろす。

もちろん、そこから先は「いろんなやり方」がある。だからこそフェミニストだけでなく全人類で「そこから先」を考えるべきだろうと思う。自分も評論家ヅラしている場合ではない。

ただ。そのうえで言うと、自分はバービーが人間社会に混ざり「現実」を受け入れながら進むというストーリーもわかるが、バービーがバービーランドに戻り、楽園の全員で子供を育て合う世界がみたいとも思った。
大統領の職務中は、休憩中の学者バービーが面倒をみるとかね。で学者の研究中は、「海辺の男」が面倒を見るとか。その辺、想像力が縛られてしまっているんじゃないかとも思う。優等生すぎるというか、ちゃんとしすぎているというか…。

「人形あそび」だからこそ描ける「可能性の解放」があってもいいじゃないか。なんてことも思う。
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