このレビューはネタバレを含みます
「男性らしさ」「女性らしさ」という「ゲーム」から降りて「自分らしさ」へ。このスローガンには構造主義的なパラドクスが内包している。
構造主義とは、ごく大雑把に言えば個人(社会)は社会(個々人)が規定するある構造(枠組み)に規定されるという考え方である。例えば、社会が「女/男」という二項対立な性別の図式で機能しているとき、個人もまたそのような図式のもとで機能すると考える。
この図式を顛倒させるために、二項対立な性別の図式を超えて新たな性別(やそれに類するもの)を規定するか、性別自体を相対化する(「男/女らしさ」から「自分らしさ」へ)動きが出てくる。
どちらも大切なことだが、しかし、このとき思い出したいのは、ソシュールの「言語とは差異の体系である」で表されるスローガンである(構造言語学)。ある区別(差異)をなくす区別(言語/言葉)は、またある区別(差異)の体系を誕生させてしまう。
「自分らしさ」がいかに魅力的に見えても、各々の「自分らしさ」もまた社会によって規定される側面もあるのであって、その意味では「女/男らしさ」に似ている。
kendomをつくろうとしたムキムキマッチョななんちゃら(忘れた)ケンを、狭い男社会的マッチョイズムに傾倒した哀れな人間とだけ見る(そういう側面ももちろんあるが)のは、「言葉の自動機械」だと思う(ケンにとっては、「ケンらしさ」を「発見」したに過ぎない)。
こういう自己言及的な側面を往々にして持ち、本当に複雑で呆れるほど面倒なこの問題を余すところなく描き出している本作は、社会や個人への絶望と希望の両方をもって迎え称えるべき作品だと感じた。