タケオ

ひきこさん VS 貞子のタケオのレビュー・感想・評価

ひきこさん VS 貞子(2015年製作の映画)
3.3
 「きれいは穢ない、穢ないはきれい。さあ、飛んで行こう。霧のなか、汚れた空をかいくぐり」とは、ウィリアム・シェイクスピアによる戯曲『マクベス』の冒頭に登場する有名な一節だが、「映画(をはじめとしたアート作品)」の全ては、この一節のアナロジーで語ることが可能である。何故なら「標準」からの距離で測る限り、「誰もが息を呑むような美しい作品」と「誰もが目を疑うようなトンデモ作品」は同じようにいびつで、そして同じように価値があるからだ。きれいと穢い、美と醜は、常に表裏一体なのである。
 いうまでもなく、本作『ひきこさん vs 貞子』(15年)は後者——すなわち、「誰もが目を疑うようなトンデモ作品」である。稚拙な演技、お粗末な演出、破綻した脚本、安っぽい撮影、バラエティ番組のようなBGM、ドン・キ◯ーテで購入したかのようなコスプレ衣装、どこをとっても最低レベルだとしかいいようがない。「センス」「技術」「熱意」とあらゆるものを欠いた『ひきこさん vs 貞子』からは、ある種の「狂気」すら漂ってくる。過激なまでに退屈、もはや催眠術だ。
 しかし、あまりにも異常かつ退屈であるがゆえに『ひきこさん vs 貞子』は、4周ぐらい回って遂に「シュールレアリスム」の領域にまで突入してしまった。これは真に驚くべきことである。ついウトウトしていたら、今見ているのが夢なのか、それとも映像なのかがわからなくなる。もしや、これは「Z級ホラー映画」の皮を被った「実験映画」なのではないか?怒りとも、失望とも、興奮とも、感動とも異なる、今まで出会ったことのないまったく新しい「何か」に身を委ねることを、『ひきこさん vs 貞子』は鑑賞者に要求する。夢とうつつの境界線が崩壊し、自らの理解が及ぶことのない「異界」の中に引き摺り込まれるかのような、そんな感覚を味わうこととなる。だんだんと、この退屈極まりないはずの異常な作品が愛おしいような、そんな気すらしてくるのである。
 「シュールレアリスム」の領域へと果敢に挑んだ作品といえば、『アンダルシアの犬』(29年)や『ツイン・ピークス』シリーズ(92~17年)などが挙げられるだろう。しかし、「シュールレアリスム」を表現するために徹底的に作品をコントロールしていた『アンダルシアの犬』や『ツイン・ピークス』シリーズとは違い、「ひきこさん vs 貞子』にはコントロールといったものはまるでない。あまりにも下手くそであるがゆえに『ひきこさん vs 貞子』は、それこそ「無意識」に「シュールレアリスム」の領域へと突入してしまったのだ。これは意図してできることではない。仮に、もし制作陣に作品をコントロールする力量があったとしたら、『ひきこさん vs 貞子』はただただ退屈なだけの陳腐な作品にしかならなかっただろう。本作のような映画が成立したこと自体、まったくもって「奇跡」であるとしかいいようがない。
 本作『ひきこさん vs 貞子』が、ご立派な評論家たちに褒められる日が来ることはまずないだろう。しかし、そんなことはどうでもいい。他に代替することのできない唯一無二の「トンデモない何か」が、『ひきこさん vs 貞子』には確かにある。あまりにも下手くそであるがゆえに「シュールレアリスム」の領域にまで突入してしまった唯一無二の「トンデモ映画」として、これからも『ひきこさん vs 貞子』は僕の中で輝き続けるだろう。その「輝き」は鈍く弱々しいものかもしれないが、いずれにせよ「輝き」には違いない。きれいと穢い、美と醜が表裏一体であるように。
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