Ricola

20センチュリー・ウーマンのRicolaのレビュー・感想・評価

20センチュリー・ウーマン(2016年製作の映画)
3.6
マイク・ミルズ監督の少年時代の思い出をなぞらえた半自伝的で年代記的作品。

思春期の息子と母親。なかなか難しい関係性だからこそ、母は彼と歳の近い友人たちに彼の成長を見守ることを頼む。
「男を育てるなら男じゃない?」
そんなジェンダーの決まりごとなどないのだ。
 

記録映像や当時の実際の写真が頻繁に插入される演出は、この監督ならではのものなのだろか。
例えば母ドロシアと息子ジェイミーがお互いの半生について説明するシーン。当時の映像が用いられることで、母の若き頃の大恐慌の時代だけでなく、作品の舞台である70年代の当時の文化や若者たちのことをノンフィクション的に享受しうる。

アビーもジュリーも、ジェイミーのナレーションによって同様に紹介がなされる。彼らの長い人生においてほんの少しの間交わっただけだからこそ、その出会いを称えるように記録映像や写真という切り取られた一瞬の奇跡が用いられる。

彼女たちはジェイミーとドロシアの住む家にいつでも歓迎されている。
ドアを開ける前にすでに窓枠から彼女たちの顔が見えているショットからも、オープンな感覚であることがわかる。

基本的に一対一での会話や行動をともにすることで、彼らは相互理解をしていく。ジェイミーは年上の女性たちから外の世界と「女性」について学ぶ。
彼女たちがジェイミーとどのように過ごしたのかを、ドロシアは彼女たちから聞く。そこでドロシアは息子の成長を間接的に知ることになる。

ドロシアも息子のために何もしないわけではない。理解できない若者文化を知ろうと努力し始める。
なんでも頭で理論的に考えてしまう彼女にとって、パンクなんてまるで異世界のものかもしれないけれど、自分を解放するのにはうってつけだということを知っていくのだ。

とはいえ、ドロシアがアビーやジュリーと世代間の価値観の違いでぶつかってしまうこともある。
フェミニストであるアビーの勧めで、フェミニズムの本を読みその影響を受けるジェイミー。
しかしそれをドロシアはジェイミーには過激すぎると言う。フェミニズムに関する考え方は、女性同士でも世代間で異なることは現代でも変わらないと思う。

それぞれ理解できないことがあって、どのように接すればいいのかわからなくなってきている。だけどお互いに思い合っていることには変わりない。
こうした親子関係というのはわりと一般的なのではないか。
なんとか息子のためを思って、彼の成長を見守ろうとする母の不器用な優しさと鬱陶しく思うもその優しさになんとかこたえようとすると息子のぎこちない関係性、そこに関わる第三者の女性二人の客観的かつ寄り添った視線があたたかい。

「わたしの役割はほんの少ししかなく、あとは消え去るだけ」
母はそんな寂しいことを言ったけれど、思春期以降はたしかに親以外の大人がさらに重要な存在になりうる。
親の手の中だけに置くのではなく、外の世界に送り出すことで子供はさらに成長するはずだから。
Ricola

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