古川智教

メッセージの古川智教のネタバレレビュー・内容・結末

メッセージ(2016年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

時間に対する問いは一旦脇に置いておいて構わない。それが主眼ではないからだ。「メッセージ」における真の問いはなぜ人は子をなすのか、なぜ女性は子をなして母となるのか(それも生まれた子がいずれは、若くしてか老いてかは関係なく、苦しむことが、死ぬことが避けられないにもかかわらず)、だからである。時間の特性がどうかという内容は二次的であり、第一の問いを補足するものでしかない。

ヘプタポットの言語は何も人類にとって珍しいものでも何でもない。というのも、ある言語のまとまりをひとつの円のかたちで指し示しているに過ぎないからである。ある言語のまとまりとは何か。それは「本」である。原作の「あなたの人生の物語」のタイトルから取れば、「物語」である。そして、「メッセージ」という映画から見れば、それはもちろん「映画」である。「物語」も「映画」も、我々が日常で感じる慣習的な時間と同じように線形で後から前へと流れているように読み、かつ見るものである。しかし、「物語」、「映画」を全体で見れば、または最初に戻れば、円環として認識可能である。任意の点を指せば、ヘプタポットやヘプタポットの言語を理解したルイーズのように任意の点の手前から見た未来を見ることができる。我々の実人生だけが死によって切断され、死後を知り得ないばかりに任意の点に立ち戻ることができない。そう、思われている。しかし、我々はしばしば任意の点に立ち戻るための手段=武器を有している。それは記憶である。記憶の定義を変える必要がある。過去の思い出だけが記憶なのではない。人生自体を「物語」や「映画」と仮定してみれば、任意の点から見た未来もまた記憶である。そういう風に記憶を定義し直してみると、ヘプタポットの言語をそもそも人類は手にしている。仮定によってしか捕捉できないものがあるのだ。人類が仮定以外から何かを創始し得たであろうか。しかし、はじめの問いに戻るが、この映画は時間論ではない。時間論はあくまで仮定として、時間以外の問いを開始するために有効なのだ。「物語」や「映画」の時間を我々が創造する以上は、「人生」の時間をも我々は創造しているのだ。

円環としての時間の中では、人の選択は選択にはなり得ない。未来が決まっているのに、その未来にならないような選択をすることができないという意味で、選択したつもりのものが選択ではなかったと円環によって取り消されてしまう。しかし、円環としての時間は完全な円=真円ではない。ヘプタポットの言語が完全な円=真円ではないように。円の形状は多種多様である。これは何を意味しているのか。ヘプタポットの円環の言語の中で未来を見ることとは、円環の歪みや差異を見るということである。なぜ、ルイーズは死が避けられない我が子を生むことを選択するのか。未来が決まっている以上は選択になり得ないから、だけではない。選択し得ない、選択不可能な状況の中でなお選択することこそが円環の歪みや差異なのだ。それがどう子をなすことと関係してくるのかを掴むためには、その逆の完全な円=真円の方が何なのかを把握する方が容易い。完全な円=真円とは、我が子が死ぬことが予め分かっているということである。それはどれだけ繰り返しても変わることのない円環である。それに対して、円環の歪みや差異とは、たとえ我が子が死ぬと分かっていたとしても、それでもなお我が子を愛した時間は多様であり、円環から溢れ出すぐらいのものであり、且つまた同じ悲しく苦しい結果に至ろうとも何度でも同じ選択をしたいと心から望むものである。なぜ、そのように望むからといって死ぬことが分かっている子を生むという残酷な選択ができるのかという問いは完全な円=真円によって否定されている(円環によって選択が取り消される)以上、円環の歪みや差異としての選択を、それでもなお選択するという選択によって二重化し、肯定するしかない。子をなすことの完全なる答えが得られることは決してない。だが、完全なる答えとは完全な円=真円の方の円環でしかないので、我々はそれを変えることはできないし、その否定性に飲み込まれたままでは死よりもなお悪い生きたままの死が待っているだけだ。不完全ではあっても、数ある答えの歪みと差異の中からしか肯定を引き出すことはできないのだ。
古川智教

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