海

メッセージの海のレビュー・感想・評価

メッセージ(2016年製作の映画)
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あなたは、真夜中、窓を打つ雨の音に眠りから呼び起こされ、伸びをした指先にふれた窓枠の冷たさに今が冬であることを思い出す。顔を出せるくらいまで、音を立てないようにそっと窓を開けて、吹き込んでくる風が、あなたの頬から熱を奪った。2階建ての狭いアパートの敷地内に、煌々とライトを焚いたタクシーが、水たまりを跳ねさせながら入ってきて、あなたが顔を出したすぐ下の軒下まで、建物にぴったりと寄って停車した。乗客の存在を、その声だけであなたは知る。車のドアが開く音がして、小さな女の子の、叫ぶような高い笑い声のあと、つられて笑いながら、極力抑えたような、それでも雨よりは大きく、「おばあちゃんには秘密だからね、ママが怒られるんだから」と若い女性の声が聞こえた。あなたはこう思う、あの小さな女の子は、いつかのわたしかもしれない。まだ幼かった頃、母親の運転する車の中で、夜中まで一緒に歌を歌ったり話をしたりしながら、あなたは行っても行っても初めての景色だった道と、それを照らし出す街灯や、小さな家や高いビルの灯りを、ひたすら忘れないように見つめつづけた。ガチャガチャと鍵を開ける音がして、玄関のドアの向こうに、先ほどの母娘の声は消えていった。それからしばらく夜風に吹かれたあと、あなたは窓を閉め、すぐそこで静かに、死んだように穏やかな顔をして眠っているそのひとを見下ろした。そしてあなたは泣いた。悲しさやさみしさではなかった。途方もない愛や痛みの再演にそのとき気がついているのは世界で自分だけだと感じた。ただ生まれては消えていくいくつもの、なにかを表すにはとても断片的すぎる言葉たちが、あなたの心のうちがわを流れ落ちていき、それとおなじように、あなたの頬を肌色の涙がすべり落ちていった。

いつか、ずっとまえ、あなたは見慣れた広島の街を、まるで初めて訪れた街のように眺めた。自分の車とは違う匂いと座り心地にもすぐに慣れて、あなたは、助手席から歩道ってこんなに近かったかなと、そんなどうでもいい思考にたまに邪魔されながら、この時間がおわらなかったらいいと考えた。夜、街の灯りは眩しかった。ショーウィンドウに並ぶ真っ白いマネキンが身にまとっているのは今年トレンドのコートで、アミューズメント施設から若者たちがもつれ合いながら出てきて、道路を挟んだ向かい側のケーキ屋には短い列が出来ていた。通り過ぎていく顔の、ひとつひとつに、あなたは誰のこともさがしたりせず、どんな意味も持たせようとせず、ただかれらがかれらであることを、そのまま、あるがままに、ただ受け容れていた。あなたは、「わたし高校、定時制だったから、冬になるともう帰る頃まっくらで、そのとき街、こんなふうだったよ」と言おうとして、やはり言わず、代わりにそこから入ってゆける記憶の詳細を心の中で呼び起こした。高校から、駅までの道を一人で歩きながら、一番眩しかったのは、店でもスマホの通知でも、ウォークマンの液晶でも街灯でもなくて、アパートやマンションのオレンジの灯りだった。十字路を曲がって、いつかブランコに乗って友人と話し込んだ公園の前を通って、地味で粗雑なイルミネーションの横を通って、横断歩道を渡って、改札に誰も居ない裏口から駅のホームに入るまでの数十分のあいだ、みえるかぎり、そのオレンジの灯りを目で追い続けていた。たまにひとつ消えることがある、そしてたまにひとつ点くこともある、誰がどこへ行くのか、誰が帰ってきて、どんな様子なのか、想像していた。知らないかぎりは、幾通りでもこたえがあるから、思いつくだけ、一人の女性や、母娘や、夫婦や、恋人たちや、父娘を、想像した。かれらが、スーツを脱いでいるその途中で、疲れてベッドに倒れ込んだり、「今手離せないから先にお風呂入っちゃって」と家中響き渡りそうな大きな声で言っていたり、玄関で雨に濡れた上着と靴下を脱いでいたり、帰りの車の中で喧嘩をしてしまったせいで沈黙のまま互いのことだけをやっていたり、そういう、家の中のある光景を、ひたすらに、想像した。かれらの顔と、声と、服の好みと、性格と、学校や会社での立場と、それまでの歴史のことを、想像した。そのことを、ただ、そこにあるものとして、どんなに悲しかったり、滑稽だったり、苦しかったりしても、うけいれられたら、どんなにいいだろうかと、自分と一生無関係であるかもしれないかれらが、自分の世界の一部であることについて考えていた、16の自分のことを、あなたは思い出した。舗装されていない道では、ガタガタと車が揺れた。温度差でフロントガラスが曇るから、暖房は足元と窓に向けて吹いていた。その、会話などほとんど無かった車内に、満ちていた、そこにしかなかった時間の流れを、あなたはそのあとの人生で、何度も何度も思い返すことになるだろう。その夜も、あの雨の夜と同じだった。あなたはこう思う。いつかこんなふうに、ママの運転する車に乗っていた、と。歴史をくりかえしているみたいだと、おなじことが、何度も自分の人生にあった気がする、それは過去で、今で、未来のことだと。すべてが、あまりにもさみしくて、あまりにも輝かしくて、それは奇跡でも何でもない、あるから、あるだけのものだった。そのときに、込み上げてきた涙と、おさえがたい胸の高鳴りが、それが自分に与えようとしているものが、感動なのか、可懐しさなのか、あるいは多幸感か、あるいは、衝動なのかは、わからないけれど、わからないからこそ、あなたはそれに夢中になり、すべての知識と経験をつかって解き明かしたいと思い、それについて、一生、一生、抱きあげて、かたちを確かめながら、どこまでも連れ添おうという決心をする。その決心は、互いの理解や肯定を必要とせず、親密さすら無意味で、ただ、あなたの中に流れる、過去と現在と未来というすべての時間、場所、空間が、その相手だけをよりどころとしてそこにあるような感覚、そこにかよっている温かいいのちの、そのなによりも希少であるはずの光の、実感だけのため、おこなわれたのだ。

最後にあなたが、そのひとから得たものについて、あなたは今もまだ答えを出せず、ただ、答えなどないことを覚悟し、そのうえで凝視している。海のすぐそばだった。歩いて、5分もあれば海をみることができるのに、あなたたちは同じ海を見たことはなかった。室内があまりに静かだと、部屋中に波の音が響くようだった。それほど海に近い町だった。夏は暑くて、冬は寒い、けれど風と、陽の落ちる色や温度と、木々と海は、本物だった。それらすべてを、全身で感じながら生きてきた「優しい」と言われる自分と、そうではない、都市で育った、それでも虫1匹殺せない優しいそのひとを、あなたはよく比べては不思議に思った。ある夕暮れ、わずかに移動しつづける星を見つけて、そのひとはあなたに言った、「あの変な星、見える?」。上を向き続けて、立っている感覚がわからなくなって、ふらふら回りながらあなたたちは、ひとつの不思議な光をみつめた。「星じゃないです。点滅しないから、飛行機でもない。ISSです。国際宇宙ステーション」あなたはそう言った、高校生のとき、帰り道でよく見ていたと付け加えた。不思議な星を見ていた目と同じ目で、そのひとはあなたを見た。あなたはそれに気がついて笑った。ある夏の夜は、大きな川の上を横断する石の橋を渡った先の林道で、蛍をさがした。見当たらず、引き返すために振り向いたそのとき、少し先の道の真ん中に漂うひとつの消えそうな光があった。蛍だ、とあなたが言うと、ほんとだ、とそのひとは言って、二人して暫く立ち尽くした。風ひとつなく、虫の鳴く声と、川の流れる音だけが、よくきこえる夜だった。林道を抜けたずっと先には、民家の灯りがみえていて、別世界のように遠く感じられた。「いつか、あそこにいくだろうか、わたしたちも」「いつか、あそこにいただろうか、わたしたちは」かならず、朝はきて、真っ暗な道を照らし続けていたライトも必要なくなる。朝焼けが、あなたたちを夜の名残りのように型取った。窓の向こうで、点滅をしている信号も、朝の、昨日のなにもかもを忘れ去ったような澄みきった空気も、希望とも絶望ともおもわず、時間が確実に過ぎていくことだけが、あなたをいっぱいにした。いつかこんな瞬間が、また訪れるのだろうかと考えるだけで、死にたくも生きたくもなった。果てしなくて恐ろしかった。あなたは好きだった。そのひとのことを。なれるものならば、恋人になりたかったし、できることならば、ずっと一緒に居たいと願った。それでも、あなたは、そのひとと居るとき、何よりも強くこう祈ったはずだ。「このひとが、わたしの父親だったら、どんなによかっただろうか。」それが一番あなたを苦しめた。本当に、本当に嫌で仕方なかった。今までに、交際した相手は2人で、男性と女性、一人ずつ、あなたはどちらの相手とも、まともに触れ合うことができなかった。手をつなぐことさえも本当は違和感が付きまとい、たとえばキスをして、それを続け、相手の手が服に触れたり、体のどこかへいこうとしたとき、あなたは一瞬にして、「我慢できるかも」と思う。けれどできなかった。そして相手に責められ、だから別れるしかなかった。そのことに深く傷ついたあなたに、そのひとはこう言った。「できないことも可哀想かどうかも関係ない所であなたを美しいと思う」。まだ誰にも話したことのない自分の話が、あなたの、今思考したい向き合いたいことの真ん中に、もう長いあいだ居座っていて、その席であなたは、こう告げる…、「わたしには性欲がほとんど無いのかもしれない。そのひとが、性的に魅力的であることは分かっても、その部分に、たとえ惹かれていても、わたしはそれに、触れたり自分の手でどうにかしたり自分のものにしたいという、欲求が、衝動が無い。」なぜそうなのかも、いつか変わるのかも、いつまでも変わらないのかも、あなたは分からないから、心と言葉を恐れた。向き合うことより、逃げることのほうがずっと、あなたにとっては苦しい。とても乗り越えられそうにはない壁があまりに目の前にある。100件近い、何万字にもおよぶメモたちは、その時々のあなたをこんなふうに語る。「まだ届かない、言葉に届かない心、心に届かない言葉」「表現を、つづければつづけるほど、わたしは自分の中からあらゆる欲求が消えていくのを感じる。」「愛しあうことが、暴力から1番遠い場所にあってほしかっただけ。」「ながいあいだかけて、できあがったわたしたちがいた。」「心は、女でも、男でもなくなりたい、性を、肉体を、超越したい」「あなたが泣くとき、わたしは抱きしめたい、泣きやむまで抱きしめて、眠るときはおやすみのキスをしたい。心に手と腕と唇があったらいちばんよかった。なぜふれられないの」「愛について、考えて、考えて、かんがえることしか、したいことはない。」「幸福に向かうことと、幸福を見極めることとははっきりと違った。」「何度も、何度も、それをくりかえして、わたしたちは本当のあるべき姿へともどっていくの。」

ずっと、そのひとのまえで何かを語りだす自分の声と、言葉と、すがたが、潔白で、いつわりのない、ある一点へと向け、まっすぐにひたすらに突き抜けていくひかりのようであれと、あなたは祈っていた。その潔白さとは、あなたにとって、1番重要な瞬間にかならず孤独であることを選び取るということだったし、そのいつわりのなさとは、あなたにとって、嘘にも真実にも、決してあなた自身で弁解をしないということだった。あなたはなろうとした、からだを捨て、時間を捨て、あらゆる欲求を捨て、あなたは、あなたの肉体は、あなたの精神の力そのものになろうとした。自分が何のためにあんなに必死に苦しんでいたのか、いまならわかるはずだ。望んでいた、あの日、海からきた風が通り抜けていった部屋のように互いの生があることを、あの日、頬や手のこうや首筋を照らしていた陽光のようにいつか互いの死があることを、そしてそのすべてをただ受け容れ認める力だけをあなたは望んでいた。

人生だった。歴史だった。終わりなんてないように感じる思考の中にいた。自分にとって本当に大切なことを、本気で、心から、そのために死んでもいいというおもいで、考えるために、わたしは長い長い時間と、いくつもの、数多の言葉を必要とする。千の言葉をつかって、あらゆる言葉を使い果たして、たった一つの心へたどり着こうとしている。書くことをつづけたい。書くことを、つづけたい、それだけがわたしを、世界とつなげておいてくれる気がする。わたしは自分を凝視することで世界を見たい、そして世界を介して自分自身を見つめたい。はじめて、自分の過去を呪った夜、自分を許せないかもしれないと思った夜、それだからこそ、そこにわたしのすべてがあると思った夜、わたしの心と、わたしの感情と、わたしのからだと、わたしの言葉が、わたしのちからのもとにのみあったあの夜、そこは知らない街で、数秒間ずつの車の走り去る音や知らない口調の話し声をきいているその時間にも、ひとびとは、ひとりひとり、どこかへ向かっていて、わたしは、何度もそうしてきたように、何度も何度も、想像してきたように、そこに居るであろうひとたちのことを、思った。かれらの心と、感情と、衝動…、音楽と、映像と、その記憶について、永遠のような夜の中で考えた。その夜、すぐとなりに、妹がいるようで、わたしの猫がいるようで、母親がいるようで、もう十年以上も会っていない年老いた今の姿の父親がいるようで、あなたがいるようだった。感情のそとがわで、感情のうちがわを詩に書いた。次の朝は時間通りに起き、数日後仕事を終え帰宅したとき、鞄も毛布も放り投げて最初に猫のからだを撫でた、その数分間が、遠い地での何日もの生活をまったく別のものへと変えていく不思議な感覚に、わたしを遭遇させた。「わたしはわたしの愛と汚辱の中でいきたえたい。わたしになることにいのちをかけたい。ひたすら心と体を使い、それが尽きるまで、手も指も唇も耳も、わたしの力のために動きつづける。運命は変えない。過去を恨まない。それらがつくっているわたしを憎まない。ただそれをうけいれる力がほしい。」窓の外に、あなたがいて、そのずっと向こうに陽が沈んでいく。ほかには誰もいなくて、時間を区切る音だけをそこで待っていた。外に風が吹くと、しばらくして内へと入ってきた。窓の内と外は、あんなにも違った。わたしのいるところは白い。あなたのいるところは真っ赤だった。光と、影と、それの見せている色が。風と、空気と、それの感じさせる温度が。声と、言葉と、それの聞かせている音が。わたしたちをずっとずっとそこに、あるものとして運んできた。そのことをおもった。毎日おなじように訪れる黄昏のあの時間に、これからもずっと変わりながらそれを迎えていくあなたがいた。変わらないでね、それは、変わっていってね、何も怖がらずに、という意味だったことが、いまならわかる。この心ひとつあればよかった。怖いことしかないこの世界で、怖いことはひとつもない。あいは、ふたつが近づくことじゃなくて、ふたつが、それぞれに、自身の内へ、奥へ、近づいていくことなのかもしれないと、いまは思うようになった。いつだってこうおもうの、愛しているわたしの美しい猫と同じ日に死ぬことよりも、1日長く生きるのを選びたい、猫が去るのを見届けて、そのからだを休ませてあげて、もうここにあなたがいないことを心からひとりで悲しんだあと、わたしはしにたい。わたしの中にはたくさんのあいがあって、たくさんの「あなた」と呼びたいあいてがいて、たくさんの、たくさんの記憶と、歴史と、その再演がある。わたしの人生に訪れつづけるたったひとつの瞬間が、これから死ぬまで何度でもわたしに、いのちをかけさせるのだと思う。
海