青山祐介

パリはわれらのものの青山祐介のレビュー・感想・評価

パリはわれらのもの(1961年製作の映画)
3.8
『リヴェットはヌーヴェル・ヴァークの中で一番フランス的な作家だといえるであろう。……リヴェットはパリとその鄙びた街路の詩人なのだ。』ジル・ドゥルーズ

ジャック・リヴェット「パリはわれらのもの(Paris nous appartient)」1961年 フランス

 リヴェットのパリを、遠く離れた極東の、薄汚い場末の映画館の片隅に身を沈め、座席の背にだらしなく両足を投げ出し、紫煙を燻らせ ― 昔はこれが可能であった ―、観ていると、それは夢とも現実ともつかない未知の経験となり、暗く黒い病んだ都市パリの路地裏に彷徨いこんでしまったのではないかという幻想に捉われる。これがリヴェットのパリ、リヴェットの歩く街路なのだ、と納得する。私たちもリヴェットと一緒にパリを歩いてみる。すると「夕暮れの幻想の中で頂点に達し、都市(パリ)のあらゆる場所には、もはや私たちの夢が与える現実と連結しかない(ドゥルーズ)」街の隠れた真実の姿が顕われてくる。そこは陰謀が渦巻く街なのだ。街では、狂気と、誘惑にあらがうことのできない秘密にみちた登場人物たちが夜昼となくさ迷い歩いている。これがリヴェット自身のいう「ひとつの冒険 ― 未完成の、おそらくは挫折した冒険」というものであって、街路の詩人リヴェットのパリの散歩なのだ。それは心の幻霊、渦巻く情念、観念の冒険、妄想と欲望と狂気の体験なのかもしれない。リヴェットのパリは、私の心のなかのパリとは違うものである。そのことがこの映画をとてつもなく難解なものにしている。
 歴史と記憶(回想)は区別しなければならない。さもないとリヴェットのパリを歩くことはできない。ましてや経験することなどできるはずがない。私たちは「すでに起きたことという書物のページを開く」だけに終わる。それは夢の欠片、イメージの残像、観念の残滓、「企みのみで未遂に終わった(ペリクリーズ)」現実といわれる陰謀であり、これがパリの街路の散歩である。
この映画では劇の上演が現実と虚構の鏡のイメージになっているといわれる。しかし、いつまでたっても上演されることがなく、ひたすら繰り返される劇のリハーサルが現実と虚構、歴史と回想、現在と過去の狭間に私たちをつき落とす。それは別の意味でシェイクスピアのテンペストを予感させる。
リヴェットの女たちも鏡のイメージで描かれる。陰謀をあばき、謎を探求するのはつねに女たちである。アンヌとテリー、それはパリの街路の「ニンファ(ヴァールブルグ)」であろうか。それとも「アウラ(ベンヤミン)」なのか、「オーレリア(ニルヴァル)」なのか、「グラディーヴァ(フロイト)」なのか、「パリの通りすがりの女(ボードレール)」なのか、リヴェットの映画にはかかせない女たちだ。やがて女性は「狂気の愛(1969)」のビュル・オジェに代表されるミューズとなって姿をあらわす。
 女たちの登場で、リヴェットの主題を、というかリヴェットの全貌を少しだけ理解することできるようになった。かれは言う「陰謀は常に主題、何かの主題やゲームの口実だ」。作品に渦巻く陰謀は時代を背景にしていても政治的なものではない。「煽動は嫌いだ。政治的な作家の作品は嫌いだ。映画を政治に利用するなんてね、扇動的な美しい映像もおぞましい。すべての本質は光だ(インタビューより)。」リヴェットの作品の本質はタルコフスキーに似たところがある。
リヴェットはフランス北西部セーヌの河口のルーアンで生まれた。1431年5月30日、ルーアンのヴィエ・マルシェ広場でジャンヌ・ダルクは処刑された。現在は聖ジャンヌ・ダルク教会がある。リヴェットにジャンヌ・ダルクを題材にした作品(1994)がある。それがリヴェットの原点であるとさえ考えてしまう。女たちの「光」、それはジャンヌ・ダルクなのかもしれない。
青山祐介

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