らいち

ビースト・オブ・ノー・ネーションのらいちのレビュー・感想・評価

5.0
キャリー・ジョージ・フクナガが映画界に戻ってきた。その復帰作は、戦争から生み出される「野獣」の姿を新たな視点で照射した衝撃作。現実に目を背けることのない脚本と演出に、フクナガの本作に賭ける想いが滲む。ズドンと胸を撃ち抜かれた。傑作。 ゲリラ部隊の指揮官を演じたイドリス・エルバのパフォーマンスが強烈。

アフリカの架空の国を舞台に、紛争に巻き込まれた幼い少年が、ゲリラ兵になっていく姿を描く。

本作は史実ではなく、史実に着想を得た完全なフィクションだ。戦争に至る社会的な背景描写は省かれ、少年の目から見た世界に絞られる。なので、「敵」「見方」といった構図がほとんど出てこない。そして、アフリカに留まらず、現在も世界のどこかで続く「人間が同じ人間を殺戮する」という現場のリアルを抜き出し、1つ物語として構築。ストーリーこそフィクションだが、そこで展開するドラマには嘘がなく、人間の確かな血と体温が通っている。

物語の舞台となる国は紛争の渦中にあったが、主人公のアグーが暮らす村は中立地帯にあり平穏に暮らしていた。アフリカの人たちの大らかで陽気な気質が眩しく、家族、友人たちとの笑顔の絶えない日々が描かれる。一日中遊び回り、わんぱく坊主なアグーにとってはまさに楽園の世界だ。しかし、ある日を境にその世界が一変する。楽園が地獄に変わるのだ。こんなにも簡単に世界は変わってしまうのかと言葉を失う。ルールを破棄して、政府軍が中立地帯に攻め込んでくる。国民を守るべき政府軍とは名ばかりで、彼らは無差別の殺し屋集団だ。愛する家族が目の前で一瞬のうちに殺される。命からがら逃れたアグーは悲嘆と絶望のなかで森をさまよう。その途中、若い青少年たちで構成されたゲリラ部隊に襲われる。彼らに捕えられ処刑される間近で、その部隊を統率し「コマンダー(指揮官)」と呼ばれる男に救われる。男は言う「兵士になって、殺された家族の復讐をしたくないか?」。

「マインドコントロール」ではない。「洗脳」という言葉が、辛うじてあてはまるかもしれない。少年は、家族を殺した相手に対して、おそらく憎しみよりも恐怖が先立っていた。指揮官の誘いに対しても、その場をやり過ごす選択であったと考えるほうが自然だ。誰にいつ殺されるかわからない世界で、見方を見つけ、その集団に取り入ることが、非力な少年の生き残る術であった。その後、少年を兵士に育て上げる訓練が始まる。土着の呪いや暴力により、恐怖心を植え付け、迷いをなくすことが訓練の目的である。兵士としてのあるべき掟は「ピュアであること」。しかし、訓練だけでは兵士にはなれない。通過儀礼が必要になる。コマンダーがその手引きをする。「この頭はメロンと違って堅いから、力を込めてナタを振り下ろさないとダメだ」と言う。それに応えた。肉体が裂ける感触が細い腕に伝わる。アグーは無抵抗の人間を殺す感覚を初めて知る。

「神よ、許されない罪をおかしました。だけど、正しいことをしたとも思うんです」
少年の自我は残っていた。相手は復讐すべき相手ではなかった。憎しみでもない恐怖でもない、もう1つの感情が芽生えた。そして少年を侵食する。

 太陽よ、なぜこの世を照らす?
 僕はこの手でお前をつかみ、
 その光をすべて絞り出してやりたい
 そうすればこの世は暗くなり、
 ここで起こる悲惨な光景を誰も見ないで済むから

虐殺、暴力、ドラッグ、レイプ、虐待・・・アグーの目の前に広がる世界は、汚く惨たらしいものばかりだ。アフリカの赤土は鮮血でその色を濃くする。監督のフクナガは、目を背けることなくその世界を詳細に描きこみ、観客の目の前に突き出す。それはときにショッキングだ。一方で、映し出すのは、少年の悲壮な姿だけではない。ゲリラ部隊の中で、コミュニティーでの絆を実感し、戦いのなかで生きることを謳歌するシーンも捉えられる。とくに、アグーの相棒役である、口の利けない少年「ストライカー」との友情関係は温かくも切ない。ストライカーの存在は、アグーが生の重みを知る糧となる。戦争に翻弄され「戦いを終わらせるためには死ぬしかない」と悟る少年がいた。子どもでいることも、子どもに戻ることもできなくなった少年の姿から、忌わしい戦争の姿が見えてくる。

監督フクナガにとって、長編作品はこれで4作目だ。30代という若さにあって、早くも成熟味を感じさせる脚本と演出力だ。1作目の「闇の列車、光の旅」で完全なオリジナル 作品を手掛け、2作目の「ジェーン・エア」で古典劇のリメイクを手掛け、3作目ではテレビ界に進出し「TRUE DETECTIVE」で刑事ドラマを手掛けた。「TRUE DETECTIVE」は、ドラマの製作概念を変えたと言っても過言ではなく、その手法はドラマの完成度に結実した。4作目となる本作では、再び映画に戻り、「戦争モノ」という、これまた過去作品とは異なるジャンルに挑戦したが、彼の作家性はブレることはなく、本作もまた彼にしか撮れない作品に仕上がっている。本作では撮影監督まで兼任しているため、彼のセンスをとりわけ強く感じる。ジャングルの豊かな自然と光を操り、戦いに明け暮れるゲリラ兵たちを照らす。主人公の視点を保った戦場のライブ感は熱気を帯び、アグーの小さい鼓動を手離すことなく、ときに幻想的な映像を織り込みながら、殺人者となった少年の内面を描き出す。

フクナガが描く世界の幹となり、強い存在感を放つのが、 主人公演じるエイブラハム・アターと、指揮官演じるイドリス・エルバだ。戦争に引きづり込まれた結果、新たな人格を身につけ、歪な成長を遂げた少年を、エイブラハム・アターが体現する。そして、本作の最大の引力はイドリス・エルバの怪演だろう。その迫力にただただ圧倒される。彼が演じる指揮官の役割は、未熟な少年たちを統率し、戦いへの士気を高め、自らの野望のために利用することだ。イギリス生まれの流暢な英語を封印し、アフリカ訛りの癖のあるイントネーションを駆使して、パワフルにリズミカルに兵士たちを鼓舞する姿が目に焼きつく。恐怖と羨望を集めるカリスマを演じるとともに、紛争という国家権力の闘争の中で歯車でしか生きられない男の哀愁を漂わす。イドリス・エルバは、助演としてオスカーにノミネートされて然るべきだと思う。

映画の内容には関係ないのだが、本作はNetflixで鑑賞。自宅のテレビを介して観たのだが、アメリカと同時公開の新作映画を自宅のテレビで見られるなんて、夢にも思わなかった。凄い時代が来たものだ。しかも、これほど優れた映画が、映画スタジオではない、映像配信会社が製作してしまうなんて驚きだ。Netflixでの映像製作の利点については、監督の自由度が挙げられているけれど、デビット・フィンチャーがNetflixでハウス・オブ・カードを手掛けたように、優れた映像作家がスタジオの縛りなく作品作りができる環境は歓迎すべきだと思う。ただ、興行収入(映画館興行)を当て込む映画界とは、バチバチの対立関係にあるようで(そりゃそうだ)、本作もそれが原因でアカデミー賞をはじめとする映画賞から無視される可能性が高い。

観る側としては微妙なところで、本作のような完成度の高い映画については、映画館で観ないと勿体ないと思いながらも、早くに観られることの恩恵を感じたりする。一番良いのは、他の先進国と同じくらいのスピードで、日本での公開時期が早まることだけれど。

【85点】
らいち

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