古川智教

ザ・ディスカバリーの古川智教のネタバレレビュー・内容・結末

ザ・ディスカバリー(2017年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

私とはこの世界が受けた傷である。
私がいなくなれば、この世界の傷は修復される。

世界は既に願いそのものであり、願いは成就されている。その世界に私という主体が裂け目を入れることにより、願いは切り離される。こう考えてみよう。

我々の願いを叶えようとする意志が来世へと引き継がれ、我々の行為を変えることができたとしても、同じ願いを抱く以上は別の結果には至らない。もしも、その願い自体が別の方向に向けられたときには、結果的に元の願いが成就する。しかし、そこに願いの主の居場所はない。願いの成就とは私を除外したときにはじめて達成される。願いとはそもそもそうしたものだ。誰かを助けたいという願いは、私を放棄し、私を差し出して、犠牲にすることで成就される。

私を除外すれば、世界=願いは修復される。それこそが発見=ディスカバリーである。

普通、will=願いとは、私という主体が願うものだと思われている。もしも、事実はその逆で私という主体を除いた世界の方こそが願いそのものだとしたら、どうだろうか。私という主体が世界に裂け目を入れることで、私という主体が願いを抱いているように錯覚し、なおかつ世界という願いに空けられた飛び越えられない裂け目によって、願いが成就するのが阻まれているとしたら、どうだろうか。
普通、傷とは私という主体が受けるものだと思われている。身体と心の傷のみならず、生まれる前からのアプリオリな傷としてであれ、やはりそこには私という主体が前提とされてしまっている。しかし、事実はその逆で、私という主体そのものがこの世界=願いにつけられた傷なのだとしたら、どうだろうか。もしそうだとしたら、私という主体がこの世界=願いに存続する限り、願いは成就されることはない、ということにならないか。

「ザ・ディスカバリー」において、死後の世界とは、私という主体の願いがループしていく来世に受け継がれて、来世において前世で叶えられなかったその願いを成就しようと、前世とは別の行動をとっていく世界であることが明らかにされる。まだこの段階では私という主体の願い=意志があるからこそ、来世にそれが受け継がれるのだと思われている。だが、映画のラストシーンでのウィルの願い=アイラを救いたいという願いは、アイラの子供が海で溺れるのを防いだことで成就される。それはつまり、ウィルがアイラとの恋愛関係を開始できないことを意味する。ウィルの願いが成就されたのは、私という主体=ウィルが、世界=願い(この場合はアイラとの愛)から身を引いたからではないか。私という主体がこの世界=願いから引き退けば、私という主体こそがこの世界=願いの傷であったのだから、この世界=願いの傷が修復されていくことで、願いは成就される。もちろん、ウィルがこの世界から消えたわけではない。この映画では、私という主体を丸ごと除外しているわけでもない。私という主体がこの世界からの引き退き続けること。傷が自然に治癒されていくように輪廻を繰り返すことで、世界=願いが自動修復されていく。

これは死にゆく過程とどこか似ている。来世の発見がなければ、我々は死んだ後に死んだ自分を振り返ることができない以上、自分の死を確定することができない。死を確定できるのは他者の死だけである。私という主体の死を私という主体から見て、確定することはできない。永遠に死の瀬戸際で死につつある状態こそが私という主体である。そうだとしたら、我々が生きている過程そのものが、生の世界からの引き退き続ける過程そのものだということになる。

親にとって、子は願いそのものである。親の意思には関係なく、遺伝子を引き継いでこの世に生み落とす以上、原理的に願いそのものである。子は親から身を引き離し、親は子から身を引き退けていくことで、子としての願いが受け継がれていく。そうした引き退きがなければ、子は子としてあることの願いを成就することはできないだろう。
古川智教

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