カラン

カルテル・ランドのカランのレビュー・感想・評価

カルテル・ランド(2015年製作の映画)
5.0
純粋暴力批判

このドキュメンタリーフィルムは、メキシコの麻薬組織と戦う「自警団」をドキュメンテーションしながら、転移し続ける癌のように始末をつけられない悪夢的様相を呈した麻薬戦争を描いている。誰が悪いのか?悪い者を捕まえた瞬間、捕まえた側の正義に悪の影がさしているのだ!

このドキュメンタリーは同時にアメリカのメキシコ側の国境地帯にも着目し、「自警」活動をする白人のストーリーを映し出す。「悪しき」メキシコ人を待ち受けるこの男の哀愁には、見覚えがある。待てど暮らせど《敵》はやってこない。敵の偵察部隊を見つけた。囲い込み、突入する。もぬけの殻だ。「取り逃したか〜」という嘆息が滑稽なほど、人の気配はない。発砲音がしたかと思えば、実戦ではなく、訓練だ。無線が入る。敵のはずだ。緊張が走る。草むらのなかでやっと見つけた複数のメキシコ人は、様子がおかしい。なんと敵の食料調達部隊だという。武器を持っていないのだから、そう言うしかないのだろうが、不法移民とそのガイドのようにしか見えないのは、私が無知だからか。

この男によく似た人物を知っている。サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』だろうか、それともカフカの『掟の門』だろうか?いや、ヴィム・ヴェンダースが911以後を描いた『ランドオブプレンティ』において、テロリストのpresence / absenceに翻弄され、暗視カメラを装着して、あらぬものを見つけてしまう、つまり何も見つけない、あの愛国者だ。テロリストの不在。恐ろしいのは、テロリストが存在していることではなく、いないこと。いるのに、いないこと。いないのに、いること。ヴェンダースが哀れっぽく描いたテロ恐怖症のアメリカの姿はそういうものだろう。男は言う。

「アメリカとメキシコの間には想像上の境界線がある。善と悪の境界線だ。俺は自分が正しいことをしていると信じている。」

男は元軍人であったが、失職して、放浪中に、この自警活動を思い立った。不法移民たちに職を追われたのかもしれない。しかし、「世間は自分のしていることを人種差別ではないのかと言うが、違う」らしい。男は実の父から虐待を受けた過去があり、この男の持つ倫理とは父を反面教師にすることである。内面の空虚さとは裏腹に、いやその当然の帰結として、憎むべき悪は外にいる。こうして男は人気のない荒涼とした土地で、アメリカを悪から守るために、暗視スコープを装着して、夜な夜なパトロールに出る。しかし緑色の暗視カメラの視界には何も映らない。

実は、このようなアメリカ側の反応は、この男の個人的な経歴に根差した、個人的な反応なのではない。これは麻薬カルテルという本質的に得体の知れない悪が引き起こす、本質的な、反応なのだ。麻薬戦争が、ある特定の個人や組織が引き起こした、始まりと終わりのある戦争ならば、このような反応にはならない。しかし『カルテルランド』の描く戦争は、範囲を確定させることができず、偏在する戦争なのだ。この戦争はメキシコのでも、アメリカのでもない。戦争の範疇は、男の言うように、「想像上の境界」に基づいており、従って境界は、ない、のだ。

劇場公開時のパンフレットに解説を書いたらしい山本昭代さんという文化人類学の研究者によると、この『カルテルランド』は事情を知らないと「暴力満載の筋書きの見えないサスペンス」になってしまうらしい。ネットに山本さんの『ミチョアカンの戦争 カルテルランド』という解説がある。参照してほしい。しかし、だ。

麻薬戦争が純粋な暴力の発露であり、その暴力の本性が合理性の絶えざる逸脱と破壊でなくてなんだと言うのか?『カルテルランド』には、暴力に人名と所属と地域名と歴史的事実を被せることで、麻薬戦争を筋書きの《見える》ジャーナリズムの切り貼りに仕立てる意図などあるわけもない。カントは理性の限界をつかむために『純粋理性批判』を書いたが、マシュー・ハイネマンは暴力としての暴力に限界がないことを『カルテルランド』で描くのだ。この戦争には終わりがなく、始まりもない。ハイネマンが撮影で最も恐ろしかったのは、夫を誘拐され、自分も誘拐され、夫は火をつけて燃やされ、自分は墓穴に生きたまま放り込まれてレイプされ、「お前への永遠の拷問として、お前を生かしておく。」と宣告された女にインタビューをした時だったという。女の目は虚ろに落ち窪んで、穴のようになっていたという。拷問の地獄はその永遠性にある。生が終わる瞬間が苦しいのではなく、生が続くことが苦しいのだ。終わらないことが恐ろしい。これがこの戦争の正体であろう。正体がないという正体。覆面を被り過ぎて自分でも自分が分からないという《正体》なき正体。永遠的に正体をつかめないのだ。あまりの正体のつかめなさに、思わず敵はいないのか?と感じてしまうほど、この敵は不在absentなのだ。

自分はインターネットの前に座しているだけで、暴力の暴力性を何とか描写しようと決死のロケを行う作品に対して、三文小説のような評価をするのは、自分の側の知的努力不足を棚に上げた、許しがたい怠慢ではないのか?この女が受け続ける拷問的な苦痛を、「ファミリア・ミチョアカナ」から分派した「テンプル騎士団」の何某の仕業だと分かれば、理解できるとでも言うつもりなのか?語りえぬものを語ろうとする知的努力を人はすべきだ。そして、そういう努力を評価すべきだ。「人は他人の苦悩を理解できるのか?」というドストエフスキーが20世紀の暗い展開を予想したかのように立てて、20世紀の哲学者たちが思考し続けることになった問いを無視したところで、社会研究などといっても駄弁に過ぎない。麻薬戦争は語り得ぬ苦悩を、その不可能性の故に、反復強迫的に与え続ける。その不可能性を無視せずに、その不可能性に抗うこと。言葉を奪われ奇跡を期待するしかない場所で、カメラを回すこと。それが『カルテルランド』だ。

私はスペイン語も分からないし、『未来世紀ブラジル』は本当のブラジルを描いた作品なのじゃないかと思うくらいに中南米の事情に疎い。それでもこの作品のすごさをどうしても伝えたい。ここでは、プロローグ、すなわちエピローグを、だからプロローグでもエピローグでもなく、おそらくこれまでもこれからも続く場面を語っておくことにしよう。

「神が許す限り、麻薬を作り続けるよ。」

メキシコ、夜、多分山の中、覆面をした男たちが、怪しげな化学物質の粉末を、ドラム缶に注いでは、かき混ぜるたびに、魔法のように青い煙がたちのぼり、夜風に消えていく。男たちが作っているのは、メタンフェタミン。固形だと水晶のような、あの麻薬だ。

「アメリカ人の化学を学んだっていう親子が俺たちに作り方を教えにやって来た。」

「体に良くないのは知っている。」

「貧しい生まれだから、仕方ない。」

「うまくやれば、いい生活ができる、あんたみたいにな。」

このような恐らくは犯罪者であろう覆面たちの信条告白から始まるこのドキュメンタリーは、最終的にこの男たちがどういう経緯で覆面を被ることになったのかの経緯を仄めかして終わることになる。観ている側はいきなり覆面に「あんたら」と呼びかけられていながら、カメラを構えて私たちに映像を届けようとしていりのはいったいどういう人物なのかという謎とともに、メキシコとアメリカの国境を行き来させられ、善悪の彼岸について思考を巡らせることになる。

人は神の下に皆生きている。神が存在するのならば、人は皆同じなのだ。人は皆仕事をして生きる。生きるために仕事をするという点で人は皆同じなのだ。知性も品性も感じられない覆面が、麻薬密造の現場で語る言葉に、《北半球》で《知的労働》に従事する私たちは絶句する。この男たちは「自警団」ならぬ地方防衛隊の制服を着ているのだ。麻薬カルテルと戦うために組織され、市民を守ろうとしない隠蔽と腐敗の政府に見切りをつけて、虐殺と誘拐と略奪と搾取の麻薬カルテルと戦うはずの市民のための組織の一員であることを示す制服を着て、男たちは麻薬を密造しながら、生きるために、仕事をしているのだと訴えている。

貧しき者、病める者は幸いなるかな・・・。生きる、倫理として語れるのが、この「生きる」だけになっているような地域の話しなのである。
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