河

微笑むブーデ夫人の河のレビュー・感想・評価

微笑むブーデ夫人(1923年製作の映画)
4.2
影の使い方、平面的な絵作り、光を絞ることによる構図作り、鏡による分裂の表現、揺らぐ床など、ドイツ表現主義映画と共通する演出の多いフランス映画。ドイツ表現主義映画とシュルレアリスム映画の間を繋ぐ映画としてこの映画と同監督の『貝殻と僧侶』があるように感じる。最初のフェミニスト映画でもあるらしい。

抗うことのできない権力的な存在、その抑圧によって現実と非現実に分裂していく自己を、ナチスドイツ、戦争へと向かって行く国家と市民の比喩として描いてきたのがドイツ表現主義であるとすれば、この映画での権力的な存在は夫であり、抑圧されるのは妻である。どちらも舞台は田舎の街となっている。

後にムルナウは『ファウスト』においてその抑圧する存在をファウストを誘惑する悪魔として、それが愛によって打ち負かされる姿を描いているが、この映画では妻の空想の中で夫がその悪魔と重ね合わされる。

抑圧的な夫に対して、家庭に囚われた妻はピアノの演奏中や空想の中でのみ自由となる。夫はそのピアノに鍵をかけ、妻の空想の中へも侵食するようになる。妻は逃げ場すら失って行く。

家庭でピストルを持っているのは夫のみであり、金の管理も夫が行なっている。家庭における力を全て夫が独占しているように見える。夫は弾を抜いたピストルで自身を撃つというジョークを好んでおり、妻はそのピストルに弾を込め夫を殺そうとする。

妻は翌日それを後悔し弾を取り除こうとするが失敗する。夫は妻により弾の込められた銃をジョークとして妻に向け、撃つ。その弾は妻から外れるが、夫は妻が自分を殺そうとしたのではなく妻が自殺しようとしたのだと思い込み、妻を抱きしめる。そして妻はその先も変わらず囚われた生活を続けることになる。

夫は自分が妻に対して妻としての役割を押し付け、抑圧していることに全く気づいていない。それが妻と夫の間のピストルに感じる重みの違い、そして妻が自分を殺そうとした可能性に全く気付かない皮肉のようなラストの勘違いへと繋がっているように思う。

この映画を見て『貝殻と僧侶』はこの映画での妻を僧侶として、その抑圧された欲望、それに伴う空想への逃避をより抽象的に描いた映画だったんだと感じた。

この映画はドイツ表現主義映画の物語構造を落とし込んだものであり、『貝殻と僧侶』の脚本はシュルレアリスムの作家によって書かれたものとなっている。ドイツ表現主義とシュルレアリスムそれぞれの根底に同じ社会による個人の抑圧、現実からの遊離があったことにこの二つの映画を見て気づいた。それでいうと、ダダは既存秩序の破壊やユニバーサル言語を用いた連帯によるその社会への反抗とかになるんだろうか。
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