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ハドソン川の奇跡の346のレビュー・感想・評価

ハドソン川の奇跡(2016年製作の映画)
4.2
正直、あんまり期待してなかったんだけど。というのも、フィクションを放棄してからのイーストウッド監督作品はいつだって秀作といった感じで、それはそれは上手なのは分かるんだけど、魂がゆさぶられるような感覚は個人的にはなくて、これもおんなじ感じだろうなって思ってたからなんだけど。これは違った。映画だった。

で、何が違ったかを考えてみると、やっぱりトム・ハンクスなんだろうな。彼がこの作品を映画にしてる。155という台詞だけで、あれほど感情を語る芝居が他の役者にできるだろうか。

そんなことを思いつつ自分にとって、何が映画なのかということに考えを移してみると、昔から絵画の延長線上にあるものを個人的に映画だと感じていて。なぜ暗い背景なのか。なぜここに百合の花があるのか。なぜこんな服を着ているのか。なぜこんな仕草をしてるのか。などなど、被写体の感情を表現するために配置された作為によって、絵画は、被写体の心のフィルターを通した世界として描かれるわけで。

自分は映画にそんな作為を見つけると嬉しくなるのだけれど、クリント・イーストウッド監督作品にはそれがあまりなくて、絵画というより写真に近いんじゃないかと思ってた。だから苦手なのだと。

いや、何も写真が悪いというわけではなく、写真はたった一枚で、例えば戦争孤児が泣き叫ぶ写真一枚で、多くの人の感情を揺り動かす力があるわけで、そういった意味で伝記映画にこういった手法を使うのも悪くはないし、わかるのだけれど、それだとどれだけ頑張っても写真には敵わない気がしてしまって。これは個人的に写真を仕事にしていた経験があるのも大きいのだけれど…。

でもクリント・イーストウッド監督作品の中には、パーフェクトワールドや、マディソン郡の橋など、心の底から愛してると言えるぐらいの作品もあって、じゃあそれらは他の作品に比べて何が違うのかと考えてみると、前者はケビン・コスナー、後者はメリル・ストリープというアメリカを代表する、作為の塊のような役者が主役を演じているからなのだろうな 。そんな彼らが演じることによって、写真には写らないものを描くことが出来る。

それは被写体からの視点。
絵画にある作為のように、被写体の心のフィルターを通した世界。

だからなぜ自分が、ハドソン川の奇跡を愛せたのか、その理由がトム・ハンクスにある。
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