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ハドソン川の奇跡のasayowaiのレビュー・感想・評価

ハドソン川の奇跡(2016年製作の映画)
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2009年に起きた実話にアレンジを加えてイーストウッドらしいサスペンスに仕上がっている。「イーストウッドらしい」とはなにか。
 
 それは沈む大国アメリカの希望になった感動の物語を、受難の物語として描いてしまう被虐への執念に他ならない。
 
 あたかも公聴会のサリーの指摘により一転して「無罪」を勝ち取ったかのような描き方になっているが、実際にはあくまで調査の一環としてシミュレーションを行っただけで機長の責任を追及する類のものではなかったはずだ。
 しかし、本作の調査委員会は終始、サリーの責任を追及しようとしているように映る。
 いや、サリーを苦しめるのは調査委員会だけではない。連日ホテルに押し寄せるマスコミ。英雄に不躾な好奇の目を向ける市民。しばしば差し挟まれる妻との電話でもそうだ。九死に一生を得てなお、ホテルに幽閉されて多忙な日々を過ごす夫にろくな労いの言葉もかけず、ややヒステリー気味に家計の話をまくし立てる。同じく死線を乗り越えた相棒ですら、副業ではじめた安全コンサルのウェブサイトが過大広告気味であることを揶揄し、ペテン師呼ばわりする、そんな回想がサリーをさらに苦しめる。
 
 もはやここまでくると、映画全体がPTSDによる被害妄想なのではないかとすら思えてくる(実際サリー本人も事故後はPTSDに悩まされたそうなので実話と異なると言いたいわけではない)。これが奇跡の話であれば、乗客に焦点を当てて感情移入させるアプローチも当然考えられるだろうが(無理やりすべりこんだ便が不幸にも水没してしまう家族の話もやけにあっさりしてる)、あくまでこの映画はサリーの暗く沈んだ表情を追い続ける。原題SULLYの名に偽りはなく、その点で邦題「ハドソン川の奇跡」はややミスリードともいえる(マーケティング的には正しいし、自分もそうする)。

 そう、これは奇跡の話ではない。本作は他人の生命をその腕ひとつで左右してしまった男が背負う業の話だ。その意味で『アメリカン・スナイパー』や、『許されざる者』、『ミリオンダラーベイビー』にも連なるイーストウッド的テーマといえる。確かにサリーが握るのは銃ではなく旅客機の操縦桿だ。しかし、旅客機がいともたやすく兵器と化す鉄の塊であることは誰もが知っているはずだ。いや忘れていたとしても本作のオープニングを見れば誰でもそのことをおもいだすはずだ。
 
 ニュースで何度も流れたコックピットの音声記録を導入にして奇跡の再現を期待する観客が目の当たりにするのは、ニューヨーク市街地に墜落する大惨事の映像だった。アメリカに希望をもたらした実話を利用してアメリカに絶望をもたらした悪夢に変奏してしまうイーストウッドの意地の悪さは一旦忘れて、実話ベースの弱みをてこにして衝撃シーンを演出し、開始数十秒で観客をつかんでしまうその巧さはさすがベテランといったところ。また、命を救われた乗客が嬉々としてインタビューに応じるニュース映像と、それを無言で消す命を救ったサリーの対比もうまい。本来は彼も九死に一生を得た生存者であり、同じ立場のはず(公聴会直前に妻が謝罪するように)。だが彼は自身が命を預かる立場でもあり、場合によっては乗客を殺してしまったかもしれない立場にいたわけで、その点が決定的に異なる。
 
 ラストは法廷劇の形でサリーが潔白を証明し、大団円となる。締めくくりはコックピットボイスレコーダーによって事故の真相が明かされる場面。極寒のハドソン川で生の喜びに文字通り打ち震える乗客をよそに、執拗に乗客の生死を確認しようとする姿は異様であり、副操縦士ですら唖然としていた。サリーの責任感と冷静さを示すシーンではあるが、まるで感覚を失ったかのように彼だけ震えることなく、何かに取り憑かれたかように職務を全うしようとする様はむしろ病的に映った。イーストウッドの「他人の命をゆだねられることに対する絶対的嫌悪」ともいえるものが垣間見えた気がする。戦争や殺人といった倫理に反するテーマでない分、それがより鮮明に浮かびあがる。やはり「イーストウッドらしい」本作だが、従来とは違った角度からその一面が味わえる貴重な傑作。
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