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シャーマンズ・マーチのKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

シャーマンズ・マーチ(1985年製作の映画)
5.0
[傍観者として総てを見ていたが故に何も見えていなかったマケルウィーと女たちのマーチ] 100点

ロス・マケルウィーというおっさんが、何を思ったかシャーマン将軍の"海への進軍"が南部地域に与えた影響を撮ろうと思い立つが、出発直前に突然カノジョが去ってしまい、取り敢えず地元である南部に戻ることにする。そして、彼の目の前を多くの女たちが通り過ぎる。昔なじみのメアリー、女優志望のパット、インテリアデザイナーのクラウディア、言語学者のウィニー、元カノのジャッキー、教師のディーディー、ロック歌手のジョイアス、元同級生のカレン。マケルウィーはホームビデオ並の近さで彼女たちの生活を切り取り、日記並のパーソナルな独白とシャーマン将軍への興味(というか最早強迫観念)によってそれらを繋いでいく。実際のところ、シャーマン将軍の"海への進軍"は述べたとおり糊付の意味で存在するに過ぎず、マケルウィーと女たちのマーチを中心に語られる。

そして、マケルウィーは気付く。カメラをもって総ての真実を記録し総てを見ていたはずのマケルウィーは、実は自分の目では何も見えていなかった。つまりは、自身の体験すら傍観者として"見ているだけ"になってしまっているということ。自分の人生の傍観者になるという事象は非常に共感してしまった。人生疲れてる私にとっては心に染みる映画となった。
カメラを持つと編集のことを考えてしまうとはYouTuberみたいな発言だがマケルウィーも同じであることが窺え、最早ろくすっぽ話も聴いてないんじゃないかと思えるほど"画"をキメにいっている場面もあった。

本作品で明らかになるのが"海への進軍"が世界に遺した影響の一つとして挙げられる"核戦争"への恐怖だ。"海への進軍"とは、シャーマン将軍が南北戦争の北軍将軍時代に行った、ジョージア州からカロライナ州にかけての焦土作戦のことである。20世紀の総力戦を予見するような作戦であり、これによって「バリー・リンドン」のような戦闘は金と人数で殴り合う大戦争に進化を遂げる。となれば、20世紀後半における総力戦とは冷戦であり、ベトナム戦争に負けたアメリカが抱える核戦争に対する潜在的な恐怖はアトランタでシャーマンの報を聞く南部人のそれよりも上かもしれない。こういうとき、人は既存の流動的観念から原理主義に立ち戻ることも多く、劇中核シェルターや陰謀論者のセーフティハウスのような場所が多く出てきていた。80年代アメリカはこういう空気感だったんだろう。

空っぽの部屋に始まりオーケストラで終わる"女たちのマーチ"によって、マケルウィーも我々も成長する何とも教育的な映画であるが、何よりも楽しいのが「David Holzman's Diary」で投げられた"映画は真実を映すのか"という疑問を"1001の映画"の中で回収しているということ。あんな本に物語があるなんてロマンで溢れてるじゃないか。

追記
バート・レイノルズに取り憑かれてるのもウケる。そして、もう恋なんてしないと言った5秒後くらいに先生カワイイって言ってるのもウケる。
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