糸くず

アノマリサの糸くずのレビュー・感想・評価

アノマリサ(2015年製作の映画)
3.2
ものすごく「閉じている」映画。

この映画には、登場人物が「3人」しかない。「ぼく」「きみ」「その他大勢」である。特別なのは「ぼく」と「きみ」だけで、「その他大勢」は「ぼく」にとって何の意味もない。誰だろうと、どうでもいい。そういった極端な世界の話なのだ。

「ぼく」=マイケル・ストーンは顧客サービスの第一人者であり、多くの人に尊敬される一流のビジネスマンである。しかし、心にどうしようもない空虚を抱えている。講演先のホテルで昔の彼女に電話をし、レストランで会う約束をする。再会を果たすマイケルと彼女。しかし、彼女は「その他大勢」だった。この「その他大勢」を表現する方法は大変驚くべきもので、それはマイケルが抱える圧倒的な空虚そのものでもある。「技術と物語の世界が完璧に一致している」と言ってよい。

せっかくの再会が惨めな失敗に終わったマイケルは、ホテルの廊下で運命の人(=「きみ」)リサと出会う。彼女は「その他大勢」ではない。他の誰でもないリサ、つまり「アノマリサ」である。anomaly=変則的なのだ。

彼女はなぜ特別なのか。そこに理由はない。運命の出会いとはそういうものだ。マイケルにとっての「きみ」はリサしかいないのだ。自分に自信のないリサはマイケルの熱烈な愛情表現に戸惑うも、最終的にはそれを受け入れ、二人は結ばれる。特にリサがシンディ・ローパーの“Girls Just Want to Have Fan”を歌う場面は素晴らしい。

しかし、この映画は美しいラブストーリーではない。むしろこの映画の真骨頂は特別なはずの「きみ」すらも「その他大勢」へと滑り落ちていってしまう不気味さにある。

一夜を共にし、光あふれる窓辺で朝食をとるマイケルとリサ。だが、「その他大勢」に囚われているマイケルは、リサの些細な仕草が気になりだす。フォークをカチカチ噛む音、食べながらしゃべる音。リサの声に「その他大勢」の声が重なり出す。昨日のときめきは失われた。リサもまた「その他大勢」だった。そのことに幻滅したマイケルは、「その他大勢」でしかない家族のもとへ帰っていく。

先に言ったように、この映画の世界は恐ろしいくらいに完成していて見事なのであるが、病的に閉じた世界である。特別なのは「ぼく」だけで、残りの人間は「その他大勢」なのである。それはある意味では真実である。他の誰でもない私でしかない私の絶対的な孤独、それは確かに存在する。けれども、この映画にあるのは「私」の絶対的な孤独と近いようで遠い身勝手な傲慢に過ぎない。簡単に言えば、マイケルはリサを極端に理想化して、勝手に幻滅しただけだ。いい意味:悪い意味=2:8の割合で、すごく気持ち悪い話だと思う。
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