映画漬廃人伊波興一

光りの墓の映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

光りの墓(2015年製作の映画)
3.9
咲き分けの朝顔のように、楚々とした余韻の正体とは?

アピチャートポン・ウィーラセータクン
「光の墓」

かつては(微笑みの国)として観光地ブームとなったほど親しい印象でありながら、何故か映画に関してだけは馴染み薄いタイ国からついに、というより準備を欠いた唐突さで現れたアピチャートポン・ウィーラセータクンについて触れる際、第63回カンヌ・パルムドール受賞作「ブンミおじさんの森」の作家である、という点から入っていくのはいかにもむなしい気がします。

21世紀初め30歳そこそこの若さにして既に初期2本の作品でカンヌ(ある視点賞)(審査員賞)を受賞しているのにもまして、極めて個性的な「世紀の光」の日本公開が本国発表から10年後であった事を振り返れば国際映画祭の最高賞ごときでこの作家の鉱脈を堀り当てた気にはとてもなれないからです。

「世紀の光」と同じ2016年に日本公開されたこの「光の墓」は、そんな事を思わせるくらい導入10分にも満たないうちに、画面の中に行き交う言語全てが未知のタイ語でありながら、その聞き慣れぬ響きや抑揚から取り残されているとは思えない不思議な錯覚に囚われ、例外的な時間の到来が予見出来ます。

それは誰もが知っているあの風のそよぎとか、陽光の翳りとか、たれこめる低い雲のながれのような自然さというべきもの。

例えば左右の足の長さが違う為、杖を使って歩く主人公の中年女性ジェン(ジェンジラー・ポンパット・ワイドナー)がこの映画の主要舞台である廃校の教室を再利用した病院を訪れてくる場面。

そこに広がるのは痩身の男たちが仰向けの状態で横たわるベッドの列。

常駐している看護師との短い会話からふたりはどうやら昔馴染みらしく、ベッドの男たちは(眠り病)に罹った元兵士たちのようです。

この場面に、ジェンがその後に甲斐甲斐しく世話をする事になる兵士イット(バンロップ・ロームノーイ)と、死者や行方不明者と交信する不思議な能力を持ったケン(ジャリンパッタラー・ルアンラム)という若い女性が登場しますが、3人ともここで初めて出会った筈なのに以前からの知り合いのような慎ましく伝えあっているかのそぶりに、私たちは、これから展開する彼ら3人の人智を超えた交流の気配を察知します。

タイという国が昨年7月頃から軍事政権に対する民主化運動が本格化しているのは周知の通りですが「光の墓」の時代設定はまさに現在そのものですから舞台である東北部イサーン地方にも当然、軍事政権の余波が迫っていた筈です。

そんな混乱した情勢のなかにも関わらず「光の墓」で描かれる時間は気取りのない緩やかなものとして引き伸ばされています。

アピチャートポン・ウィーラセータクンの落ち着いたその演出は大家の風格さえ漂い、まだその身の上を詳しく知らされていない私たちに、彼ら3人の存在が既に身近なものとして自然に寄り添ってくるのです。

その神話的なタイトルが想起させるように「光の墓」には(霊視)や(憑依)(前世)など現実の世界に生きる者には異質の香りが常にまとわりつきますが、それらが観念的なテーゼではなく極めて具体的な形で呈示されていきます。

患者の状態に呼応するように赤、緑、青と色彩が変調する奇妙な医療機器。

祭殿に祀られた2人の王女が生身の女性の身体を借りてジェンの前にさりげなく現れるくだり。

ついさっきまで食事や談笑を楽しんでいたのにぷつんと糸が切れたように眠ってしまう兵士。

映画を楽しんでいた観客が上映終了後一斉に立ち上がり直立不動したまま表す茫然自失ぶり。

それら人智では理解不能な時間の流れを、神秘や奇譚めいたヴェールで包むことなく、まるでショッピングモールのフードコートや、街のカフェで見られる当たり前の光景のように描き上げる手腕は、目まぐるしい移動撮影などより遥かに純度の高いイメージを換起して深い深い動揺を私たちにもたらしてくれるのです。

そして何にも増して感動的なのはアピチャートポン・ウィーラセータクン監督へのインタビュー記事を読んだ時、検閲の多いタイ映画界で、新種の表現手段の期待を一身に背負うといったこわばりなど彼の言動から微塵も感じられなかった点です。

「ブンミおじさんの森」「世紀の光」「光の墓」3本に通底する、咲き分けの朝顔のような楚々とした余韻の正体がわかった気がしました。