TnT

フィルムのTnTのレビュー・感想・評価

フィルム(1966年製作の映画)
4.4
サイレントでモノクロ映画。そしてバスター・キートン出演。これだけ聞けば喜劇を思い出すが肝心なのはサミュエル・ベケットというあの「ゴトーを待ちながら」で有名な不条理作家が絡んでいることだ。決して喜劇などではない。えもいわれぬ恐怖がそこにはある。

ちなみに、サイレントだが是非音ありで聞いてほしい。これはかなりメタフィジックなトリックも含んでいる。

最初のしわくちゃな目蓋の中に見える瞳。明らかな老いを感じるその目。そして荒れ果てた壁へとフェードする映像。遠くのビルに女の影がチラッと見える、偶然なのか?そして画面に突如飛び込んでくる男、まさにこの男が歳をとったバスター・キートンだ。ここまでで既に何か非常に不条理を感じるというか、シュールだ。そしてこの壁沿いに進む彼の姿、これがまた非常に圧迫される気持ちになる。広い空間、例えば空などが見えないただただ壁であることが、鑑賞者にまで閉塞感をもたらす。また、彼の顔が見えるのは最後までお預けであり、これがまたこちらの居心地を悪くさせる。

二人の夫婦と老婆が、どちらもカメラ目線になる所がある。彼らは驚き、そして目をそらす。老婆に関しては床に突っ伏してしまうほどだ。我々鑑賞者がスクリーンの人間に初めて拒絶されるのだ。ルイス・ブニュエルが「アンダルシアの犬」の冒頭で女性の目を切り裂くのは観客を拒絶させるためであった。今作品では逆に映像側から観客を拒絶するのだ。映画に出てくる誰もが、普通なら見られるために向きや構図や演出がある。それを今作品は裏切るのだ。我々鑑賞者の目線をあたかも危うい危険性のあるものとでも言わんかのように。主人公はあらゆる視線をさける。犬猫などの動物、絵画、そして鑑賞者である我々も。幾度となくカメラは私たちの見たい欲求に従うように主人公を覗こうとする。カメラは時折確固たる意識がある。主人公の動きに反応するのだ。

彼が封筒から写真を出す。その封筒からは写真が出てくる。その写真は思い出の品なのか、アルバムにありそうな写真の数々。その最後の写真にはバスター・キートンの現在の姿がとどめられている。直立し、眼帯をしたやや光の当たり具合も不思議なその写真。それを見ると彼は写真をビリビリに破ってしまう。しかもその破る手元を彼視点でカメラはご丁寧に見せている。その残酷さ、他人の視点を盗んでいるような罪深さ。そして最後に見える彼の顔。怯え、そして涙ぐむ片目。彼は顔を覆う。我々の見たいという欲求が罪悪感に変わる。

wikiで調べると、 キートンは喜劇役者で有名になったが、晩年は落ち目になっており、それ故にアルコール中毒などに陥っていたそうだ。そうした人間を見たい気持ち、ゴシップ的な視点、それが今作品にはある。だからこそラストの彼の顔を見たとき、酷い罪悪感と彼自身の人生がよぎってとても悲しくなった。この短編が公開されて一年後、彼は亡くなる。
不条理なドタバタ喜劇を演じた彼だからこそ、この映画を演じることができたのだと思う。彼のしわの入った手が、彼の人生を物語っている。そして彼が脈を確認するくだりはまるで彼が死期に怯えているかのようだった。

彼が眼帯をしていたのは、何故だろう。考えれば、映画とはひとつのカメラのレンズを通して撮られる。見るのは2つの目であるのに。そうした構造に対する考えがあったのだと思う。

ちなみに英語のWikipediaにはシノプシスも詳しく載っている。主人公の名前は"O"という名前らしい。英語読める人是非wikiも参照してみてください。
TnT

TnT