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水槽と国民のニューランドのレビュー・感想・評価

水槽と国民(2015年製作の映画)
3.1
☑️『水槽と国民』及び『レナートに』『目下の進捗状況は? ジャン=マリー·ストローブ』『湖の人びと』『ロボットに対抗するフランス』▶️▶️
商業映画の王道からは異端、しかし実験映画でもない誰よりも正統の、共作者を失い、老境に入った巨匠の、近作たち。タイトルが入ったりして、作品が一旦終わったかに思うこともある、二部構成の多い短編の作品群。大胆且つ峻厳な、厳格さ·密度がその間、持続してく作品ら。パート内において、その為にジャンプ·カットや、BO入れがなされる。作品·素材に任せ·委ねきれない、作家のボルテージの維持への、関心が生涯?薄れていない証左で、商業的なリズムは関係ない。あくまでテキストの扱いの所作に引っ張られない為でもあり、テキストが活きる呼吸に沿った、作品の方が下にくる処置である。一番の最新作では、テイクの自然内でのあり方·呼吸の仕方を変えての、同じテキストの読み上げの一字一句は、全くの繰返しである。しかし、撮ってる時も·観てる側においても、重み·意味合いは係わる位置·時において、何かが増してきている。ゴダールに献辞なのか、語りかけなのか、が入ってるのは、大事なモノローグは繰り返す、という後期?ゴダールの構成·手法への、支持を表したものなのか。他人の作や自作のかなり長い引用も入って、パートを成しているが、引用という以上に、もうひとつのパートとの本質的対照となっている。
作品個々も、テーマ·素材に向かうアプローチが各々に違って、トンガってて、こっちが興味を持つ·持たない以前に惹き付けられる。しかめ目先を変えたというスタンスではなく、先に言った厳密さ·自由さの面では、常にその緊張·力を保持している。1本目は、ベニングの作品かと思わせるような·店の大きな水槽の木株?と金魚らのサイレント~無台詞のフィックス捉えと背景のハイキーでボケめの行き交う人々、半潰れめで単純な窓らに囲まれた部屋で中断しつつ·テキストを読む人、ルノワール『ラ·マルセイエーズ』の民を眺めつつの貴族層か·対立する会話の移動追いつつの3カット位か、の3部構成。2本目は、自作『オトン』の皇帝操作に関し·オトンをその座と意中の貴婦人から遠ざける策謀してる2人の貴族のシーン、その撮影監督のベルタに関するスチル写真群と音声、のパートら。3本目は、竹製の椅子と、ベッドの主人ら(夫妻別々)とに、自然体で戯れる愛猫の姿2景。4本目は、中盤小舟上での朗読者写るも、前後は、黒味音声らだけと、主観ゆったり移動やパンだったか無人湖の光景占め(溝口?)。5本目は、湖畔か·斜め後からの比較的ルースなフルに近い歩き姿の、変にアクチュアルなフォロー2カット。
語られるテキストは、凡人にはニュアンスしか分からない、時代性や政治的位置付けもよくは掴めない、断片の引用で方向性は何となくは分からなくもないものら。「近代以前の国王·王権は、満月期のみ専制を振るい、前後三日月期は、民衆の祭礼的独立した動きの総体の道具でしかない。今も未開地には、性交と出産も結びつけられない、交換の概念のない、集中性と無縁のくにも。それらの前史は、猿でなく、(女王)蟻。」「あの商人らも、漁師らも、総体としてのフランス国民となる。君らは国外へ出るべき」/「国王に専制を許さず、我等が操るには、彼女は私の妻とし、オトンを完全に王座から遠ざける」/「ストローブに大事は、この揺り椅子でなく、カメラと作品」/「彼は漁師から共産主義運動に参加し、無人を共産の窟と宣し、社会主義に留めたりして、歩を進めていった」/「革命とは、断絶と絶対。それが極端からもたらす、僅かでもの変化は、システム内では不可能。その変わらない所からの利益得るが多過ぎてる。技術と自由も同じ関係」
大家の健在に気持ちはいいが、私の関心事とはフィットせず、評価は、無意味·不能。この後の講演時に語られたが、繁く通いつめた人も多いそう。私は何分の一も観てないので、頭が下がる。一方で誰よりも映画を観ていると云うだけならいいが、観ずに噂でこういう(誰もが分かるセオリーに従わないのが罷り通るを認めた)のが映画をダメにした、と言いきる人がいるのは、実際に知ってるだけに困る。
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