さむ

エミアビのはじまりとはじまりのさむのレビュー・感想・評価

5.0
(28.9.19更新)
私が好きな映画は、観客が自由に解釈できる映画。
説明しすぎることのない詩的な映画。
「あの場面、何か気になるな〜」と思い返してリピートしたくなる映画。
そういうのが好きらしい。
点と点を、自分の肉眼で自由に星座にかたどっていく作業が楽しい。


冒頭。
すでに故人への回想の匂いを漂わせる海野の姿と漫才第一声。
モテキャラ実道の登場。女性客の黄色い歓声。
輪ゴムを噛んでいるネタは、『グミ・チョコレート・パイン』で森岡龍が演じたカワボン降臨か。

マネージャー夏海の運転する車内。
車外は真っ暗闇の大雨。
この車は本当に動いているのか、前に進んでいるのか、まさに夢の中にいるような情景。
それは四十九日前の遺族の心象風景によく似ている。


黒木華。
マネージャー役の黒木華といえば『リップヴァンウィンクルの花嫁』。
自分がどこにいるのか、どこへ行けばいいのか、流されるまま彷徨い歩く不安定な女を演じていた。
本作では、日常のケの部分すら笑いに置き換え、関西人独特のしたたかさを根幹にもち、悲しみを「泣くという自浄作用」で乗り越えていく強い女性を演じている。
こういう女性は、記憶と感情と行動が一直線で繋がっている。だから、デニーロアプローチなど意味を持たない。役作りのための肉体改造などしなくても、本能的に人間の弱さや本質を理解しているからだ。そして根っからの憑依体質ゆえ、憑依と言うコトバも必要がない。
黒木華という人自身も、そういう人なのではないかと思う。


映画の幕開き。
実道と海野がふたりで自転車で走った河原、抜けるような青空。
だんだん黒い幕が侵食していく。
そして「エミアビのはじまりとはじまり」の文字。

そういえば、渡辺謙作監督『ラブドガン』の幕開きも格好よかった。
アスファルトが続く道。曇り空の上から、棘のようなモノが降りてくる。その棘が全て降りてくると、その棘の正体が、ガラスに彫られた「ラブドガン」の文字ということがわかる。


前野朋哉。
この人の巧さ(美味さ、あるいは旨さ)は言うまでもなく。
人間って、体温があって奥行きがある生き物なんだよってことに、いつもいつも気付かせてくれる。
前野朋哉は、TVドラマ『おかしの家』でも、急逝する儚い役をやっていて涙したけど、実直で優しい人というのは、現実世界でも早逝してしまう率が高いから、妙にリアルなキャスティングだったように思う。


新井浩文。
彼がよく演じる、狂気・エロ・バイオレンス、そういう類のものとはかけ離れた今回の役、黒沢。
このエミアビで、最も大きな喪失感を背負い、壊れていた人物。
実道と海野の才能を早くから認め、二人が相方として組むのを望んでいたことは、海野と雛子のデートでの会話からも推測される。生前の雛子に、黒沢自身が感じていた実道と海野に対する期待と評価を、ことあるごとに聞かせていたのだろう。雛子のエミアビグッズだらけの部屋は、黒沢自身のエミアビに対する期待感と重なっている。

*****

エミアビで最も涙腺が壊れたのは、実道と海野が河原を自転車で走っている場面だった。
ハタチそこそこの、まだ何も持たない、失うものすらない少年たちを、森岡&前野のふたりが上手に演じている。あの場面は、喪失を経験した人間には痛いほど眩い。この映画、時々こういう場面を突然に差し込んでくる。不意を突かれるのだが、しかしこういう描写が素晴らしくよいのだ。


人は何のために生きているのか。
子ども時代に誰もが必ず大人に尋ねる質問である。尋ねられた周囲の人間がどんな受け応えをするかにより、その子どもの人生観は徐々に構築されていく。

お笑い芸人という花形職業。
それを目指す少年は世の中にたくさんいるだろう。
だが「お笑い」というものは、ネタそのものの面白さよりも、誰がそのネタをやったかの方が重点が大きい。それは、ツイッターなどSNSにおける反応にも酷似していて、「言った内容」よりも「誰が言ったか」が大きい。
残念ながら、それが、「芸」の本質のひとつであることは、まぎれもない事実である。


結成直後のエミアビのネタに対し、ブレイクし始めた頃のエミアビのネタは、小道具を多用し観客とのお決まりの掛け合いと馴れ合いが増えている。売れるようになると、ファンも、その芸人の芸を観に行くのでなく、芸人本人を見に行くようになる。そして、いずれ、勝手に飽き、勝手に次のターゲットを狙いに行く。
だが、芸人本人は、自分たちの芸が評価されていると信じ込み、客が離れていることに気づかない。

「雛子さんは、エミアビのファンだから笑っていると思います」
実道のこのセリフがとにかく痛々しいのだ。

*****

森岡龍。
ロン毛時代の実道。
大きすぎるサングラス。パンダメイク。
ことごとく「目」を隠している。
彼の目を隠すところから、「森岡龍壊し」が始まっていた。
森岡龍は、「目」でも演技するので、この設定は相当やりづらかったのではないだろうかと思う。

赤髪時代の実道。
黒沢先輩に呼ばれ、海野と引きあわされる場面。
先輩の前でも物怖じせず、大きな目を見開き、海野を凝視する目。
3人で激辛餃子を食べるシーンの森岡龍がいい。
生意気な若手のとんがった表情からの破顔一笑。
このあたり、絶品。

一番好きな森岡龍の表情は、新生エミアビで黒沢と組み、初舞台の後、楽屋に向かう途中、歩きながら黒沢にダメ出しをするところだ。かつての先輩とも対等に渡り合う生意気な表情。実道らしさが還ってくる。

海野と雛子が、此岸に遺してきた大切なふたりを、彼岸から見守っている。その気配を、実道も黒沢も感じていたに違いない。
海野と雛子だけでなく、此岸ではマネージャーの夏海も見守っている。
ここでの黒木華の表情も抜群にいい。

喪失からの「再生」という最も大切な場面。
楽屋の廊下という「日常という居場所」に、心身ともに還ってきたことを、歩き方と表情と話し方だけで表現する。さすがの森岡龍と新井浩文である。

そしてそこに差し込む一筋の光。
照明さんが、本当にいい仕事をしている。
照明さんも、最後にこの作品に命を吹き込んでくれたのだと思う。



人間は生まれた時から、死に向かっている。
もともと、生のはじまりは、終わりのはじまりなのだ。

それでも、
何度でもはじめればいい。失敗しても。失っても。


映画という架空の世界に逃げ、そこで栄養を摂り、心を強靭にする。
架空を演じ、架空に遊ぶ。
こんな生き方をせざるを得なくなった今の自分自身にとって、誰かに笑みを浴びせる生き方は、自分自身をも救うことにつながるのだと、改めて思わせてくれた逸品だった。


この難しい役を見事に演じきった森岡龍さんには、心から尊敬の意を表したい。
また、役者だけでなく映画監督としても、これから面白い作品をどんどん発信し続けていただき、我々に笑みを浴びせていただきたいと思う。
さむ

さむ