イトウモ

Out 1(英題)のイトウモのレビュー・感想・評価

Out 1(英題)(1971年製作の映画)
3.7
必ずしもそういうわけではないのだが、ひたすら演劇の稽古を見ている映画というのが正しいと思われる。

『テーバイ攻めの七将』を上演しようとするリリと、『縛られたプロメテウス』を上演しようとするトマの二つの劇団。
これに、いつもお金がなくて詐欺まがいの行為で男を騙すフレデリックと、聾唖者のふりをして物乞いをしていた日自宅に届けられた手紙に誘われて「十三人組」という秘密結社の陰謀に引き寄せられていくコランの行き来が同時並行的に描かれる。

結局、ここで稽古された劇は上演されない。
リリのほうは、競馬で儲けた金を持ち逃げしたルオーという男を探すうちに劇団が霧散してしまい、トマは憂鬱症におちいって元恋人らしきサラに頼るも、彼女がいなくなったことで「縛られたプロメテウス」のごとく途方に暮れる。

ここでフレデリックが「金」を(彼女はしかも、のちにルオーと出会う)、コランが「恋」を象徴していることは興味深い。

十三人組の秘密を探るうちに謎の書店を見つけたコランは、ポーリーヌという店主にその秘密を聞き出そうと彼女を色仕掛けに誘うものの、彼自身がポーリーヌに惚れてしまう。ポーリーヌとは十三人組のメンバー、エミリーの偽名であるが、聾唖者のふりをして「決して喋らない男」として生きていたコランが、ポーリーヌ(エミリー)に恋をしたことで彼女の偽名「ポーリーヌ」を連呼して歩き回ることは興味深い。
なんとかその意味を探ろうと十三人組の音読を始めるコランは、この陰謀論の誘惑によって、あるかもしれないもう一つの「社会」の誘惑によって、目の前に社会に黙して失ったはずの「声」を再獲得するのだ。

そうしてこれは「十三人組」という秘密結社とそこからなんらかの形で生まれたらしきトマの劇団、さらにそこから生まれたらしきリリの劇団の群像劇が描かれる。

これが1970年、5月革命直後のパリの映画であることはもちろん関係する。目の前の社会の「オルタナティブ」としてきっとこの劇団と秘密結社があるのであり、秘密結社のほうはよくわからないが、劇団は現実社会から病気のように流れ込んだ「金」と「恋」の問題で崩壊するのだ。

1968年の、世界同時多発的な革命運動はベトナム戦争への反戦と同時に、「父親世代」との断絶が大きな原因に挙げられる。特に敗戦国となった国では、ナチス時代からの既得権益をそのままに要職につき続けるドイツの大学教授や、日本の安保闘争で批判の対象となった岸信介のような例を想起することができるだろう。
『縛られたプロメテウス』は父ゼウスには向かって人間を擁護した神の劇であり、『テーバイ攻めの七将』はオイディプス王の呪いにさからう二人の兄弟の劇である。いずれも父親に闘争を挑む息子と、その失敗が描かれることは偶然ではない。

しかし、アウトワンではその闘争自体描かれない。ここでは戦いも、革命も終わり、まるで解散した劇団の同窓会のような、ノスタルジックなぬるま湯地獄のようなだらだらとした馴れ合いと、身を滅ぼす恋と金、そして未だいきいきとしたなにかがはじまるともはじまらないとも言えない予感だけを讃える劇の稽古がある。

なにか稽古とか準備のようなものが、ここでは描かれ本番はない。
13時間あってもなにか物足りない気分になる。