晴れない空の降らない雨

レッドタートル ある島の物語の晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

4.5
 たしかに冗長かもしれない(90分もないのに)。
 短編が基本のアートアニメと長編の商業作品では作る論理が違うのだろう。アートアニメは「動く画」で何をいかに表現するかに主眼が置かれやすく、長編ではストーリーとキャラクターが主体になる。印象でいえば、ストーリー性による時間感覚の差異が最も根本的なもののように思われる。長編は連続する均質な時間を区切り、伸縮し、整序していく必要がある。エンタメがほぼスペクタクルを要請するのはこのためだ。スペクタクルで魅せる普通のエンタメ映画には、その場面に向けて脚本を構築するという側面が多かれ少なかれ見られる。それで、時間の流れにジェットコースターのように緩急をつけていく。
 いっぽう、時間の自然な流れを重視する場合、それは難しくなる。マイケル監督は、『岸辺のふたり』で人間の一生を描くにあたって、こう話している(「高畑勲×マイケル監督初対談!レッドタートルはどこから来たのか」)。「一人の人間の一生を描くというと、どうしてもバタバタしてしまう。それをどうしても避けたかった。本当に簡潔でそして静かな、そういったストーリーを語りたいと心から願っていたんです」。

 こうした「簡潔さ」「静粛」を心がける姿勢は、『レッドタートル』でも維持されている。だが、長編として、同じく人間の一生を描くにしてもはるかにディテールに富んでいる。それは、世界内存在として彼らが住まう「島」も同時に描くためだ。つまり、イカダを作るために竹を拾い集めたり、アザラシの死骸から皮を剥いだり、手製のモリで魚を追いかけたり、といった自然と人間の関わりを通じて、世界としての島を「全体として」描く。
 「全体」というのが重要だ。「自然への尊敬、自然を愛する気持ちを、メッセージではなくて、気持ち・情熱を伝えたいと思った」と監督は語るが、こうした言語以前ないし以上の気持ち・情熱もまた「全体的なもの」である。その「何か」を伝えるために、人物よりも世界を見せるロングショットの構図を多用することで、個々の光景からしてその「全体」を描写していく。さらに、そのような描写の丁寧な積み重ねが、有機的結合としての「全体」を創発する。また、人間に対しては、顔をなるべく単純化し、セリフを排する。逆に動植物には多少のキャラクター付けを施す。そうやって両者を調和させることで、人間を自然界という「全体」の一部分として存在させている。
 まさしく谷川俊太郎が本作に寄せた詩(公式HPで読める)が語るように、「どこから来たのか/どこへ行くのか いのちは?/世界は言葉では答えない/もうひとつのいのちで答える」。高畑が言うように、商業主義に抗わざるを得ない、そういう作品だけが観た者の心に残せる余韻がある。

 
 それと作画すごすぎ。往年のディズニーに匹敵する。監督や作監(ジャン=クリストフ・リー)も以前はディズニーで仕事をしていたので、さもありなんといったところだ。
 とにかく動く。人物はもちろん、生物・非生物(波や木々)も気持ち悪いくらい1コマ打ちでぬるぬる動く。これ、手描きとCGを併せているらしいが、もっと詳しい話が知りたい。
 芝居だけでなく、背景もめちゃくちゃ綺麗。基本的にロングショットなので、画面は背景がほとんどだ。1つの島でも場所によってぜんぜん風景が違うから、いちいち目を惹きつけられる。かといって、やたらと描き込みまくるわけでも、和製アニメみたく過剰にキラキラさせることもなく、むしろポスターのように余白を残した構図が多い。
 日本の名アニメーターが集結した『君の名は。』さえとうてい及ばないクオリティ。つまり、日本のアニメスタジオじゃ無理だし、完全に3DCG一辺倒の今のディズニー/ピクサーにも無理だろう。興行的失敗は織り込み済みだろうが、このような偉大なアニメーションが日本で観られる機会が減ってしまうとしたら誠に残念だ。