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ダンケルクのnetfilmsのレビュー・感想・評価

ダンケルク(2017年製作の映画)
4.0
 冒頭、まったく人気のないダンケルクの街を6人の兵士たちが歩くが、突如敵の銃撃に晒される。英国二等兵のトミー(フィン・ホワイトヘッド)だけは敵の攻撃から辛くも逃げ切り、土嚢の積んであるエア・ポケットのようなところに逃げ込む。この一連のシークエンスに象徴されるのは、敵の姿が見えないことに尽きる。どこから弾が飛んで来て、どこに隠れているのか我々観客は把握することすら許されないのだ。エアポケットに潜り込んだトミーはかの有名なダンケルクの海岸(砂浜)に行き着くのだが、そこには倒れ動かなくなった累々とした兵士たちの屍と負傷兵が転がっている。しかし不気味なのは、彼らの多くが煤けた顔をしているが、戦争映画に特有の飛び出した臓物やとめどなく流れる血液の描写すら巧妙にはぐらかされていることである。大抵の戦争映画において、「進軍」という言葉がある。多くは目的地となる場所に敵兵の大群がおり、陸軍は敵の拠点に向かい、軍隊を歩かせる。スティーヴン・スピルバーグの98年作の戦争映画の傑作『プライベート・ライアン』を例に出せばわかりやすい。ドイツ国防軍が守るノルマンディーに上陸しようと、アメリカ軍は「進軍」を試みる。我々観客もその姿を固唾を呑んで見守るのだが、今作に戦争映画における「進軍」のカタルシスは微塵も感じられない。

 これまでクリストファー・ノーランの映画は、時間と空間の位相を巧妙にずらすことで立体的な見地から観客に苛烈な「迷宮体験」を強いて来た。『インセプション』では夢の世界の階層から機密情報を盗み出す四次元的な空間を作り出した。『インターステラー』は本棚で隔てられた4次元〜5次元の空間で父と娘のコンタクトが観客にカタルシスをもたらした。今作もノーラン流の時間・空間を構築・再定義した「包囲からの脱出・救出」の物語に他ならない。歴史に疎い人間にはやや説明不足なのが気になるが、簡単に言えばフランス軍と同盟国のイギリス軍はBritish Expedeitionary Force(通称BEF)という名の軍隊を組織し、ドイツ軍の進軍を阻もうとフランス軍と共同戦線を張った。フランスのカレーとベルギーのオースランデの間にあるディール川沿いに陣取り、ドイツ軍を迎え撃つ作戦は「Dプラン」と呼ばれた。ところがドイツ軍は彼らの背後へと回り、ダンケルクの海岸線に40万人もの兵士たちを追い詰めた。まるでヒアリの大群のようにびっしりとすし詰めになった英国兵士たちがドイツ軍の空爆を恐れ、群れをなす場面は圧巻の一言に尽きる。

 ルイス・マイルストンの1930年の『西部戦線異状なし』のように特定の主人公を置かない物語は、防波堤の1週間、海の1日、空の1時間の出来事を見事にモンタージュし、ノーランならではの9日間の脱出サバイバル劇として描く。時間だけに止まらず、着水したコクピットの中でもがき苦しむパイロット、遠浅の海で満潮の時間を待った英国兵たちの悲劇を据えることで、限られた時間/空間に忍び寄るサスペンスすらも的確に描写する。ここにはドイツ兵とされる「敵」の姿はおろか、庵野秀明の2016年の『シン・ゴジラ』のような上層部による政治ディスカッションも出て来る気配すらない。映画は一介の二等兵や、民間の船に乗り込んだ父子のような市井の人々にフォーカスしながら、実際に起きた奇跡の脱出劇を普通の人々の英雄譚として紡ぐ。進軍した先で起こる戦禍を描くのが定型の戦争映画だと仮定するなら、今作でクリストファー・ノーランが行った試みは戦争映画の定義からは大きく逸脱する。血がほとんど流れることがない限られた時間と空間のドラマは、圧倒的なヴィジュアル・イメージの洪水によって紡がれていく。ただこれまでのノーラン映画以上に、前半部分の登場人物たちの把握が思いの外難しい(顔が判別出来ない)のと、終始不安を煽るようなハンス・ジマーらしからぬ不協和音が勿体無い。
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