すがり

少女のすがりのネタバレレビュー・内容・結末

少女(2016年製作の映画)
3.1

このレビューはネタバレを含みます

暗黒女子的なミステリーかと思って見始めたので、何か違うなというのが最初の感想だったんです。
よくよく考えてみると、何か違うのは自分の方だったんですね。

そもそもなぜミステリーだと思っていたのか。
湊かなえ原作の他の映画、白ゆき姫殺人事件に引っ張られていたんだろうか。

話の軸は結局のところ、全編通してヨルの綱渡りという小説で。
それを盗んだ国語教師の言ってたヨルについての解釈は当たらずも遠からず。
トラウマを抱えた2人の救いがその小説だった。

何が起きるか、どう解決するかというミステリー的な見方を排して、2人の機微と小説の役割を押さえるなら良い映画を見たような気もする。
疑問は残るけど、ラストの2人の笑顔と終わったという理解はとても清々しい。

でも、きっとこれは原作を読んだ方が面白いのだと思う。
機微や展開について残ってしまう疑問は、文章の中であれば腑に落ちている気がする。
映画では描写が少ないんじゃなかろうか。

どうしてそうなるのか。
そう思うのか。

それは、この物語を構成するパーツがめちゃくちゃ多いから。

小説が盗まれて、物語が始まってからはちょくちょく色んな人物が登場する。
それぞれにちょっとずつだけ役割があって、最後には全ての人物が繋がっていく展開。
いずれかを欠けば、展開が弱くなる。
使わなきゃいけないパーツが多い。

これってめちゃくちゃ小説的。
文章で読み込んでいくなら、それは能動作業になる。ぽっと出てきた人物についてもちゃんと描写されるから、一人一人を認識できるし相関図が作れる。

これが映画になると、ぽっと出てきた人は結局モブなのね。
人物描写は映像で行われるから、受動の向きが強くなる。するとこっちは主人公見てるからモブはモブのままスルーしちゃう。
そのせいで最後に向けて人物たちの繋がりが明らかになっても快感がめちゃくちゃ薄い。
モブのスルーが起きてるから、相関図は精々主人公2人と先生くらいなもの。
しかも、そんなことないはずなのになぜか後付け感まで伝わってくるからたちが悪い。

それでも出しておかないといけないパーツ。映画のモブたちが多いからそれぞれが余計に薄い。
その多さが、映画では弱点になってると思う。

ついでに、お婆ちゃんや悪口言ってくる同級生とか。映像のせいで本来の役割以上のインパクトになってるのも原作の方が面白いんだろうなと感じる。
トラウマを象徴するだけで良いのに、映像のせいでこの人たちに仕返しか何かするのかなと思わされてしまう。結果肩透かしをくらう。


こういうタイプの小説を映画化するのって難しそう。そんなことが感想になる。
原作を読んではいないけど、きっと結構忠実に映画化されているんだろうなと思う。
小説的要素を感じるから。
でも、映画化するならするで映画的な解釈があっても良いと自分は思う。
設定だけもらって一からやろうとは言わないけど。何らかの破壊行為は必要な気もする。
原作と違う解釈と創造があっても、つまるところ面白ければそれが最善だと信じたい。

思えば、伊坂幸太郎原作の映画も雰囲気はこの映画に近い。
物語ではなくて、いかにも小説的というか映画的な迫力に弱いところが。

伊坂幸太郎の場合、文章の読みやすさが青天井なので、シンプルな物語でも文章を読むという行為自体に一種の快楽がある。それを映画では映像に奪われているように感じる。

そうするとやっぱり、映像化って難しいんだなと思う。


ものすごく俗なことも書いておきたいので書いておく。
本田翼がめちゃくちゃかわいい。目が好き。
それで今回暗めな表情とか声色も出してくれるから、正直そこだけ見ても楽しいは楽しい。
あと全体的にアンニュイな雰囲気で進んでいく映画ではあるけど、新田真剣佑がおもちゃ持って「ロケットみたいだな…」と遊んでるシーンはさすがに吹き出してしまった。
いやかなりきつい下品なシーンでもあるんだけど、だって新田真剣佑だったから…イケメンのギャップにやられてつい…。
すがり

すがり