andy

映画 聲の形のandyのネタバレレビュー・内容・結末

映画 聲の形(2016年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

最後の石田の涙が、この作品の全てを象徴しているように思いました。
また、西宮が必死で石田の母親に謝っているシーンは涙なしでは観れないです。

実は石田は深いところでむちゃくちゃ傷ついていたんです。
それがあまりにもきついことなので、それを感じて認めることさえ困難でした。
故に、逃げざるを得なかった、下を向いて生活するしかなかった、クラスメイトたちを「×」にしてやり過ごすしか、生き延びるすべはなかったんです。
でも、首の皮一枚何とかしたいという思いがありました。それが西宮との関係性です。
恐らく石田本人も無自覚だと思いますが、ボタンの掛け違えの始まりが西宮との出会いで、そこに戻ろうとしたのは賢明な判断だったと思います。

この作品は、聲は聴こえているけど、本当は聴こえていない者たちの物語です。
西宮の登場は、そのことに否が応でも向き合わざるを得ないきっかけになりました。
クラス全員が実は西宮なんだと。それは西宮自身も同じです。
端的に言うと自分の「心の聲」が聴こえていない者の象徴が西宮ですが、西宮自身も実は自分の「心の聲」は聴こえていないのです。

西宮の存在が暴露したのは、クラスの人間関係が上辺だけのものであると言うことでした。聴かないといけない心の聲に、勇気がなかったり流されたりして聴かなかったんです。
佐原は怖くて学校に行かなくなりました。川井は傍観者であることに無自覚で寧ろ被害者面しています。
小学生なので致し方ない面はありますが、少なくとも西宮の存在が心の闇を刺激しました。
もっと言うなら、人間が持っているドロドロした部分です。パンドラの匣を開けたのです。
西宮が転校した後に残ったのは可視化されたドロドロで、それは行き場を失い石田へのいじめという形で行き場を得ました。

結絃(ゆづき)も、硝子を支えると言う名目で学校に行けない自分を見ようとしませんでした。おばあちゃんは、それがちゃんとわかっていました。それでいて暖かく見守っていました。
おばあちゃんが亡くなったことで、残された西宮家の3人も自らの聲に向き合わざるを得なくなりました。
例えば、西宮はトラブルがあると「ごめんなさい」でやり過ごしてきましたが、それは本心ではないし、逆に相手に不信感を与えていたことも事実でした。

西宮はクラスの中にある欺瞞を暴くきっかけとなり、植野は西宮の欺瞞を暴いたと言えます。
植野はクラスの中にあった欺瞞に恐らく気づいていたのではないでしょうか。
そして、植野自身もそれに向き合うのことには躊躇したのではないでしょうか。
故に、西宮が転校してくる前の状況に幻想を抱いた。植野自信が感じたことを否定したいがために。

また、西宮は人間関係による「手間暇」の象徴ではなかったでしょうか。
意思疎通を図るのに筆談か手話しかない。
その時点で佐原以外のクラメイトは西宮に「No」を突きつけたのです。
その対局にあったのも植野です。だから植野は西宮が嫌いで仕方なかったのだと思います。
そもそも人間関係は手間暇かかるものなんです。それを分かるのが大人なんです。
(小学生には難しいので、大人のサポートが必要ですが、担任は介入しなかったと思います)。

変化は高校生になって石田がその手間隙をかけるようになったところです。
植野にはそのことが最初は受け入れられなかったのだと思います。
しかし、最後には一番手間隙のかかる石田の看病に赴きます。これが植野に起きた変化だと思います。

植野はみんなで遊園地に遊びにいくことで、西宮がくる前の小学校時代と同じ状況を作ってみせた。
それは自分の聲と向き合わなかった小学校時代の再生産に過ぎなかったんです。
しかし、裏を返せば、向き合う機会をもう一度作ってみせたとも言えます。
石田がボタンを掛け違えて地点まで戻ってきたんです。そこで初めて新しい動きが始まりました。植野が物語のキーマンです。彼女を起点に物語が動いていきます。
彼女だけが、西宮と対等につき合おうとしました。西宮の耳が聞こえようが聞こえまいが関係なしです。西宮が空気の読めないやつと判断すれば、他のクラスメイトと同様の扱いをします。だから、他のクラスメイト等の西宮への特別な対応は、植野には偽善に見えます。

映画の冒頭で、石田は死んでしまおうと思って最期に西宮に会おうとします。
西宮も死んでしまおうと思ったところで石田に助けられ、自分の弱さに向き合い始めます。
二人ともギリギリのところで生まれ変わる方向に舵を切ることができました。

作品全体を通じて一つ引っかかる事があります。西宮家、石田家共にお父さんがいません。もっと言うなら、父が表す秩序や方向性みたいなものを感じられませんでした。
それは、小学校時代のクラスにも言えると思います。担任は男の先生でしたが、西宮がクラスでいじめられ、8個も補聴器が壊されることを防ぐ事ができませんでした。
挙げ句の果てに、石田一人にいじめの責任を負わせました。
あの担任は、西宮の転入で起こりうる事態を想定できたはずなのに敢えてしなかったと思います。彼は教室内に秩序を生み出すことはしませんでした。
西宮の母親も、西宮を聾唖者ではなく、一人の人間として自立させる教育はしてこなかった。
故に、植野の怒りは至極当然です。
西宮家、石田家、小学校のクラス、この無秩序のカオスの中に子供たちは放り込まれたのが実情ではなかったでしょうか。
そして、子供たちは試行錯誤の上、一つ上のステージに進む事ができた。
その成長譚がこの物語の肝だと思います。

最後に石田が涙を流せたのは、傷ついた自分に気づけたからだと思いました。
それまでは傷ついた自分を受け入れる余裕さえありませんでした。
だから心をフリーズして生きてきました。
周りの友人たちが本当の友人だと石田は気づくことができました。
そこで得ることができた信頼や安心感が、
傷ついた自分を受け入れることができる砦のようになったと思います。

自分の心の中に溜まっていて、ぼやけていた心の「聲」が「形」になった瞬間でした。
石田はやっと泣くことが出来たんだと思います。

人間関係の中で傷つきましたが、一方で人間関係の中で修復され癒やされて成長していきました。
素敵な物語でした。
andy

andy