糸くず

10 クローバーフィールド・レーンの糸くずのレビュー・感想・評価

3.2
『クローバーフィールド』を名乗る必要は全くないのにもかかわらず、なぜか『クローバーフィールド』を名乗っている映画。

この映画では、二つの恐怖が描かれている。人間がもたらす恐怖と、人間でないものがもたらす恐怖である。もっと簡単に言うと、「人間が怖い」と「地球外生命体が怖い」である。この映画のお話の基調となっているのは「人間が怖い」のほうだ。

ある日突然、外部の情報がほとんど遮断された閉鎖的な環境に放り込まれたミシェル(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)。しかも、共同生活を送る相手は男二人。外は何者かの攻撃によって破壊されており、危険らしい。しかし、彼女は攻撃を見たわけではなく、それが事実かどうか確かめる術を持たない。男たちの言うことは本当なのだろうか。それとも彼女を狙った犯罪なのだろうか。

この話で問題となるべきなのは、シェルターを作ることに全財産を注ぎ込んだハワード(ジョン・グッドマン)は正しい狂人か危険な狂人かということである。ところが、この映画はそうした葛藤を生むことに失敗している。

ミシェルがシェルターが連れてこられた時点で、すでに攻撃はある程度進んでおり、シェルターの実用性は確かめられている。また、ハワードは海軍で衛星に関する仕事をしていたらしく、地球外生命体の襲来を予見していたと思われる。なので、物語が展開していくには、シェルターの目的が「終末への備え」とは別にあることが示されていかねばならないが、その描写は一切なく、あるアイテムとメッセージの発見によって、ハワードが危険な狂人であり、ミシェルを独占したいと考えているのが唐突に明らかにされる。

「シェルター」という環境を設定しておきながら、その環境を克明に描写することなく、ただ人物の恐るべき変容のみを描いている。それでは、人物への信頼が揺れ動いているようで、実はほとんど動いていないように見えてしまう。

この映画は、本当に描くべきものを描いていないと思う。映すべきだったのは豚の死体ではない。ガラスに頭を打ち付けていた女性の死の瞬間であり、ハワードのシェルターで蹂躙され奪われた命だろう。ハワードが体現する人間の邪悪さは、髭を剃ったのを見せたぐらいで済ませられるものではない。

さらに、ダメなのは、「人間が怖い」と「地球外生命体が怖い」、この二つの恐怖はただ並べられているだけで、全く無関係であることだ。この映画、別に怪獣や宇宙船が出てこなくても成立する話なのだ。

終盤、ミシェルは巨大なエイリアンを相手に孤軍奮闘するが、彼女の勇敢さはハワードの邪悪さを打ち破ったこととは何も関係がない。いや、「関係を描こうとして失敗した」というのが正しい。それは結局「シェルター」という牢獄を描くのに失敗しているからで、作り込みが半端な牢獄をサバイブした人物が新たな試煉に向かう様を見ても、燃え上がるものなどないのである。

なんというか、小手先のハッタリばかり印象に残って、肝心の中身がさっぱり残らない映画だった。もっとちゃんとしていて面白い女性映画はいくらでもある。
糸くず

糸くず