映画として美しいのは大前提として。
つまり映画の本質を映像と音の編集とするゴダール的映画美に対する姿勢は大前提として。
なんとなく女を扱う映画に対して、観る前から反射的に女の内面性が描かれることを求めてしまうが、ロブグリエの作品には極端なまでにそれが欠落している印象。
『囚われの美女』では、それが極まっているためか、終始独特の居心地の悪さを感じる。
本作ではそこまでは行かないにしろ、同様の心地悪さが全編にわたり充満している。そしてこの女性性の抜け殻はオリエンタリズムのリフレインと合間って、主人公および鑑賞者を計り知れぬ他者性の渦へと巻き込んでいく、、、。
これがヌーヴォーロマンということなのか?
終始、女性の個人的人格は欠如している。
(その点『快楽の斬新的横滑り』では、そのような居心地の悪さは感じない。なんでかな?)
なので観た後にやはり胃が気持ち悪くなる。これがロブグリエらしさなのかと数作観終えた今知る。作品丸ごとが、西洋社会における男女のおかしな一側面を提示しているような、、。