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スイス・アーミー・マンのJFQのネタバレレビュー・内容・結末

スイス・アーミー・マン(2016年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

「THE END」じゃねえよ!うるせえよw!と、思わず笑ってしまった。
クレジットを入れてくるタイミングがうまいなあと感心させられる。
いや、そこで「ダニエル・ラドクリフ」ってネームスーパー入れる?とかね(笑)

いや、それ以上に重要なのは、こんなにも「わけのわからないビジョン」を現実化できたことで。
普通、思いついてもここまで持ってくるのが大変だし。
ハリー・ポッターの主役に「あのですね。オナラを出しまくる死体役になってもらいたくてですね…」って、言いくるめて実現までこぎつけるわけだから(笑)

で、話を戻せば。
「わけのわからないビジョン」というのは本当に大事なもので。
というのも、世に送り出された当初は、主人公の意中の女性(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)のラストのセリフじゃないが「何なの?これ?」という話なんだけど。

それでも、時を経るにつれ「あ、もしかして、あれが言っていたのは、これだったのか!」という瞬間がやってくる。

もしくは、思考を進めるための重要なモデルとして機能しはじめる。
たとえばD.デフォーはそんなつもりで書いたのではないのかもしれない。だが、「無人島に1人で暮らすロビンソン・クルーソー」は、その後、社会を語る際、何度も引き合いに出されるようになっている。
「1人で暮らす島に貨幣は生まれるか?」「1人で暮らす島で言語は必要か?」などなど。
こういうヴィジョンを打ち出せるのが「天才」ということなんだろうと思う。

そういう視点で言えば、本作が作られた2016年の時点で、コミュ力の弱い「インセル(非モテ)」は、ジョーカーのように「爆発」し現実に復讐するのでなければ、BOTなりAIなりの「人工知性」を携えた「シン生命体」とともに現実を捨て「自分(達)だけのメタバース」を生きるようになる…というビジョンを打ち出せたのはたいしたものだなと。

もちろん本作はそんな話ではなく、無人島で1人暮らすサエない男と、尻からは屁を放ち、口からは水を放ち、エロ本をみればたちどこに勃起するサエない死体とのドタバタコメディだ。

それでも、発表から7年を経た今観返してみれば、そこで描かんとしていたものはたぶんこういうことだったのだな、と見えて来る。

「わけのわからないビジョンの力」とはそいういうものだ。

だからこそ、こういうものを生み出せる人間たちを社会は支えなくてはいけない。たとえそれが「死体の屁で島を脱出する」という超絶しょうもないヴィジョンだったとしてもだ(笑)

実際、支えていればアカデミー賞に値する作品を撮ることができるのだから(笑)
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