せいか

スイス・アーミー・マンのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

スイス・アーミー・マン(2016年製作の映画)
2.0

このレビューはネタバレを含みます

12/25、Amazonビデオにて動画レンタルをして視聴。字幕版。
役者ってすげえなあと折々に思わされる映画である。あと、ラドクリフ氏の死体演技がすごく良くかった(序盤などのとことん死体やってるシーンなど妙に生々しい)。B級映画を観る気分でいたけれど、特にそういうジャンルになることもない映画だった。内容がちゃんとあるし面白い。ただしいかんとも言い難い気持ち悪さ付き。

シンプルに本作をまとめてしまえば、人生に倦んだ男が実徳ナイフ的な死体と共に交流を重ねつつ森(=イド)の旅をする話なのだけれど、そういった底の世界を彷徨うには死が近くなり、またその死が曖昧になるというのは当然と言えば当然なのだけれど、この作品においては最終的にそこに現実の目を入れてしまうことで単純に傷付いた心と向き合ったり、それを癒やすものとはしないものがある。


ダニエル・ラドクリフが死体役で主要人物役をし、オナラの推進力で無人島から脱出!という、宣伝時の見せ場のところは把握していた作品だったが、そんなん短編映画くらいの尺で終わりそうやんと思っていたが、実際そのへんのよく推されているシーンは冒頭で終わる。あとは死体とのめくるめく放浪にとにかく尺は費やされ、いろいろ置いといてだいぶこっちの頭も参ってくるのだけれど、まさに終盤に他の登場人物たちによって、恐怖、戸惑い、笑い、謎の感動もろもろあらゆる気持ちが代弁されるので、最終的にこっちにはハハハ……みたいな余韻が残る幕引きとなる。なんだこれはと、まあ、あくまでハンクの想い人のようにまともな第三者の目から捉えれば、そのように思える映画だし、こちらも頭のはしでは確かにそう思うことは否定しないが、もう少し中身のあるうえでのなんだこれはを抱くことになる作品だった。

あらすじ。忘れそうなのでがっつりめに書いておく。
主人公ハンクは独りで流れ着いたごく小さな無人島で行き詰まり、いっそ首を吊って死のうとする。まさにその逡巡のときに浜辺に打ち上がってきたのが男の死体(メニー)だった。最初はやっと生きた人間に会えたと思って駆け寄り、なんとか蘇生させようとするもすぐにそれが無意味であることを思い知らされて意気消沈して再び死のうとするハンクだったが、死体が絶えず発し始めた放屁が水中においては異様な推進力を発揮するのに気付くと慌てて死体に跨り、二人はそのまま水上バイクのように海面を疾走する。そしてうっかり海中に投げ出されてしまうのだったが、どうやら人がいそうなどこかの岸辺に打ち上がり、ハンクは、恩人となった死体を無碍に捨てていくこともできず、彼を背負って人気のない岸辺を離れ、そこに続く森の中へと入っていく。
そうして人のいるところを探しながらのサバイバルが始まるのだが、それを始めた翌日の朝、ハンクは、死体と意思疎通できることに気がつく。メニーと名乗る死体は最初こそ覚束なかったが、だんだんと流暢に喋るようになり、また同時に段々と放屁以外にも蛇口のように水を吐く、火花をちらして発火する、木を割れるほどのアタックをする、口に物を詰めると鉄砲のように発射するなどの数多の能力を見せ始める(基本的に全く動けないため、ハンクが操作することになるが、なにはともあれ、ゆえに、スイス・アーミー・マンというタイトルなのである)。メニーは生前の記憶が一切なく、またろくに物も知らない状態ではあったものの、二人は森を彷徨いながら森の中に捨て置かれているゴミを活用して舞台セットのようなものも拵えたりもして、その中で言葉を重ねていく。
艱難辛苦の旅の末にやっと森を抜けると、そこにはハンクがバスの中で毎日のように乗り合わせていた意中の人(そして既に結婚して子供も居るゆえに失恋した人)が住む家で、そこで二人は発見されるも、メニーは普通の死体に戻る。駆けつけた警察や親やメディアを前に、ハンクはそれでも誰とも向き合えず、メニーも身元不明の遺体として処理されてしまいそうなのを嫌がり、再び彼を連れて森の中へとダイブする。それを追う過程で人々は彼の旅が残してきた異様な大道具たちを目の当たりにし、岸辺に着く頃にはハンクが死体と共に異様な時間を過ごしていた異常者であるという眼差しが生まれるが、ハンクはそれでも傍目には明らかに狂気である態度を崩さない。それでいよいよ連行されるというときになると、ハンクの放屁に応えるようにしてメニーの遺体がまた異常な放屁をし始め、ハンクは、メニーが無縁仏として葬られる末路ではなく、自由な旅路へと出ていくようにと、彼がそのまま再び海へと航海を始めるように促し、一同はメニーの死体が独り、海面を走っていくのを見送るのだった……。

放屁という、人間が他人に対しては配慮や恥のためもあって目の前ですることを忌避するものを作中では最初から最後までキーとなるものとして扱い、一見バカバカしく、実際バカバカしく装いつつも、人間は醜いけど、さらけ出すことをすれば少しは救われるものもあるのかもみたいなところで扱うことをしていたと思う。
メニーは死にたいけどそれは怖いと躊躇うハンクの前に現れた導き手であり、死体でありながら無邪気で前向きで未来を見ようとしている。そしてその彼が最初にさらけ出すのが放屁なのである。彼はイマジナリーフレンドのように、ハンクの鏡のような人物として作中振る舞うのだけれど、結局全てはハンクが狂気の中で見た夢なのか何なのかは分からない。放屁もあくまで死体が放つガスが何らかのミラクルを発揮していただけかもしれない余白もきちんとあるのである(子供はまだその境界の世界を少しだけ見ていたが、大人である他人たちは放屁するところしか見なかったり)。
ハンクが実際に冒頭の無人島に本当にいたのかも曖昧で、実際にはその次の流れ着いた岸辺で荒れていたところから話は始まるのかもしれないとも思う。人生のどん詰まりを感じていて半分ストーカーしていた女性への(しかし実際に接触する勇気はずっと持てなかった)想いも捨てきれず、死にたくてもその勇気も出せず、そうして出会った、自分は果たせなかったないし果たせばそうなるであろう死体と共に森というイドの世界を旅するのである。森の中がゴミだとか糞ばかりだったりと、(放屁もそうだが)生き物が排出したあとに残される不要物に満ちていて、彼がそのゴミを活用してこの旅に臨むのもそういう意味で象徴的なものとなっている。彼の旅(夢)の跡が他人から見ると異様なものとして映るのも、それが森の中でゴミのオブジェとして目に見える形で存在している不気味さからである(しかもそこで身元不明者の死体という社会の排泄物と共に過ごしていたのだ)。作中、このゴミの中に聖書が混じっていて、生き物は不要なものを捨てるように排泄するものだという説明を多分動物の糞をインクにしてこの聖書に描いていたりなどもなかなか尖っていた。
ラストでは死体との逃避行で来た道を引き返すように岸辺に戻っているのだけれど、彼らの旅路が現実においてはすぐに終わったように、二人きりのときの放浪はやはり多分に異常な世界での出来事だったのだろうなというのは確かに描かれているので、やはりだいぶ精神にキてる男の話として捉えるものではあるのだと思う(死体が実際に動いていたかはともかくにしても)。エンディング後は精神病院にドナドナされていることだろう。

メニー(manny)は人名として考えるとエマニュエル(※「神は私達と共におられる」の意味を持つ)の別称のことかと思うが、名詞として同じ綴りでナニーの男性版、つまり男の子守も意味するものがある。彼に対してはその両方のニュアンスが込められていたのではないかと思われる。彼は、糞まみれのゴミの聖書のようなもので、汚らしく打ち上げられた、ハンクのための導き手なのだから。自殺しようと思ったときに走馬灯のようなものを見ると思っていたのに何も見ることはなかったと、ただの死体だったときのメニーに冒頭で語りかけるハンクのために彼は目覚めた存在なのだ。そして実際、放屁によって話が遮られるが、ハンクも何も脳裏に過ぎらない中で見えた流れ着いたものが何かだと思ったという旨のことを言っている。
ハンクが彼を求めることをやめたとき、または何かのきっかけでただの死体に戻るのも、彼の妄想である可能性やら神の奇跡というものの可能性を垣間見ることになるシーンかと思う。あと単純に全てがハンクの妄想だとすれば、メニーと名付けられた死体そのものが本来持っていただろうものは徹底的に無視されて一方的なごっこ遊びに付き合わされているという不気味さがある。

ハンク(Hank)なんかも一般的な人名ではあるけれど、hang(「吊るす、首を吊る、ある状況などに依存する」などの語彙)を連想するし、本作ではその意図で名付けてそうな気がするんだよなあ。普通はHenry(「家、支配者」)に連なるものでもあるので、そこを思うと、作中、やけに「故郷(home)」が頻出していたのも故意なのではないかと思うけれど。彼を苦しめてるのは直接的には過去のもろもろだと言えるので、その寄る辺の不安定さを言ってるのではというか。そしてその彼と共に過ごすのが過去のない死体という真逆の存在なのだけども。

メニーと名乗る死体はラストで駆けつけた警官の簡単な調査から、川に飛び込んだ自殺者なのだろうと推測されているように、彼自身がそもそもハンクと同じように人生に思い悩み、そして実際に自殺を遂げた死体である可能性が示唆されている。その男の死体をイメージか何かは曖昧だが、過去のない前向きで意欲的な人物として描いているのである。そしてまたハンクの半身でもあるその死体は最後には海へと解き放たれて行き、ハンクの目にはいかにも楽しげに映るのである。これってハンクの心の心象風景が半分混じった「開放」の描写なのか、なんなのか。もはやこちらとしてはよく分からんが、なんかすごいという気持ちにはなる。
ハンク自身は少なくとも作品内では死体以外の他人と向き合うことはせず、過去の影を(家族関係含め)におわせていたばかりで、いよいよ放屁を人前で堂々とすることで、また半身の旅立ちを送ることで、吹っ切れたというか、いっそ異常であることを受け入れたというか、なんかそんな感じがした。物語後に家族や執着していた女性と真正面から向き合えるとも思えないし、そもそもこの場に居合わせた彼や彼女がそれを許すとも思えないしで、未来は暗いままなような気はする。死体が放屁で海を渡る独特過ぎる開放感をどう捉えたらいいものやら。最終的に、ハンクは自分の半身にも等しく、尚且つサバイブするためにもあると便利(実徳ナイフ)なもの、自分を導くものを解き放って自分からは放してしまったわけで、残された彼をどう捉えるかという話になりそうな気がする。これからはもう一人立ちできるよとかそういうところに落としてはいないよなあ、これは。
終盤まではあくまで今までの出来事はハンクが意識の深みで見た夢のようなもので、自分の分身である死体と旅してそのジャンクの中から現実に目覚めて立ち直る話にするのかと思いながら観ていたけれど、現実が重なって完全に他者の視点で彼の道程が見つめられ暴かれることで作中でも意図的に異常者としての彼をありのままに映し出していたり、単純に人の心の救いを描いたわけではないと思うのだなあ。

ラストも、ハンクが熊に襲われたのが現実だとすると、騒ぎの中でその話が吹っ飛んでしまっているけれど、実際は民家からそう離れてはいないだろう場所でそうしたことが起きたのに放置されてしまっているということで、今度はあの妻子はおかしな男と死体という異常に出会うのではなくて、人を襲った熊とエンカウントする可能性があるわけで、そこでも現実的な破滅の可能性が示唆されてる気がするんだよなあ。

ハンクもメニーも一緒にひたすら落下して、落下して、落下し続けるというのも何やら意図的である。二人は、片や首吊り未遂で落下し、片や(警官の予想ではあるが、実際彼は水と縁が深い描写が多い)川に落下して実際に死んだという、死を媒介した繋がりもある。そうした二人が途中、「川」に落下したときに水底でキスをするのだ。メニーが「空気」を吐くという、死体とはさらに矛盾する能力をそこで見せたがために。死体との語らいのいちいちもそうだけれど、彼の旅路はとにかくあべこべでもある。
メニーは死ぬことを尚も恐れてはいるハンクが死なないための存在であり続けたけれど、この導き手が流れ着いた死体である以上はやはり社会にとっては異物的な救いをもたらすものにしかならないのではないかと思った。彼の異常性が他者の目によって暴かれていく描写といい、明るい作品ではないと思う。なんだこれは。
せいか

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