糸くず

パターソンの糸くずのレビュー・感想・評価

パターソン(2016年製作の映画)
4.2
多くの映画監督が、映画を「散文」のように作るのだとすると、ジャームッシュは「詩」のように映画を作る。

バス運転手であり詩を書く人でもあるパターソンは、何気ない日常の1ページが彼の心の水面にぽとりと雫を落とすのを見逃さないで、ノートに書き留める。あるいは、一人でそっと微笑む。

ハリケーン・カーターについて語る子ども。ナイスバディの女性との一時を逃してしまった男たち。アナーキストの学生たち。コインランドリーの詩人。詩を書く少女。

「今、ここにいること」をどのようにして肯定していくか。「今、ここ」が決して平穏ではない、あるいは平穏であってもいつ崩れるかわからないのがわたしたちの生きる現実であるから、それは簡単なことではない。あれこれジタバタしてみたくもなる。だが、パターソンはいつもと同じ日々をいつもと同じように生きる。ただし、心にそよ風が吹き渡る瞬間をつかむことを忘れないようにして。そして、この生き方は、ジャームッシュの映画そのものでもある。

それゆえに、「いつもと同じ」が破られる二つの瞬間、つまりバスの故障とノートの喪失の場面は現実の不穏な影がちらつき、少し怖い。特にノートを滅茶苦茶にした愛犬マーヴィンに対してパターソンが悪口を言う場面は、彼が口にする唯一の悪態であって、その重々しい響きに心が沈む。

だからこそ、日本人のサラリーマンから手渡されるノートの白紙のページが輝いて見える。ここはまるで年老いたジャームッシュが自分に活を入れているかのようで、自分のやり方を貫き続ける彼の誇りとため息が一緒に感じられて、不思議な感動を覚えたのだった。

アダム・ドライバーの大きな背中と、ゴルシフテ・ファラハニのずんぐりむっくりした体。奇妙なバランスのようでいて、しっくりと馴染む二人の生活。それがずっと続いていくかのように思われる二時間だった。
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