まぬままおま

街をぶっ飛ばせのまぬままおまのレビュー・感想・評価

街をぶっ飛ばせ(1968年製作の映画)
5.0
シャンタル・アケルマンがブリュッセル映画学校の卒業制作作品として初監督・主演を務めた短編。

「女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない」(p.10)
ヴァージニア・ウルフは『自分ひとりの部屋』(片山亜紀訳、平凡社、2015年)でそう主張したのだが、アケルマンは本作を通して女性が映画をつくろうとするならどうなるかを十全に描いていると思う。

本作は女性が街を飛び出し、ぶっ飛ばすのかと思いきや、鼻歌みたいな劇伴/劇伴みたいな鼻歌にのせて女性の室内の様子を映すだけである。それは何の変哲のない映像イメージのようにみえるが、彼女の様子をよくみれば、その意義が見いだせる。彼女が行うのは食事・掃除・靴磨きである。それは家事労働であり、歴史的にみれば近代家族の中で女性に不当に配分された行為ともいえる。つまり本作における彼女は、他の映画の男と同様に街を飛び出し、ぶっ飛ばすこと(それは大文字の政治の打破とも言える)ができないばかりか、彼らが無視し、女性に不当に追いやる家事労働に従事せざるを得ないのだ。だから彼女は街を飛び出さないし、飛び出せない。しかも室内といっても台所であり、「自分ひとりの部屋」をもっていないことも明らかだ。

しかし街をぶっ飛ばすことができないかと言えばそうではない。そしてそんな映画がつくれないかと言えばそうではない。それをやってしまったのが、本作の素晴らしさであり、アケルマンの素晴らしさなのである。

彼女の家事労働は崩れていく。いつものようにパスタを食べて、床の水拭きを始める。しかし洗剤の量は多いし、水は床にぶちまかれる。料理器具は床に散らかり始める。掃除を始めたつもりが室内はモノが散在するカオス空間になっていく。彼女は靴磨きを始める。だが彼女は靴と私の境界を失い、自分自身を磨き始める。家事労働に抑圧された彼女は〈私〉を失うのだ。それは小説を書いたり、映画をつくったりする自立的な〈私〉の消滅とも言えよう。

その極地に達したとき、街はぶっ飛ばされる。それは彼女に家事労働をおしつける街(≒男≒政治)への抗議の意志でもある。その抗議の意志が看取できるし有効だから、そして彼女の心情の内破が街の破壊に繋がったようにみえるから見事なのである。

アケルマンが制作当時どのような環境に身を置いていたかは定かではない。しかし彼女自身が受けた経験がきっと本作には反映されているはずである。そして彼女は映画をつくれてしまった。しかも彼女自身の経験から始まり、男の映画をふっ飛ばす映画を。

シャンタル・アケルマンの再評価はどんどん進んでいるが、その作家性は初期作からすでに胚胎していたのだ。

追伸
フォロワーさんのおかげで本作に出会えました。そんな経験ができてとても嬉しかったです。