140字プロレス鶴見辰吾ジラ

冷たい熱帯魚の140字プロレス鶴見辰吾ジラのレビュー・感想・評価

冷たい熱帯魚(2010年製作の映画)
3.8
台風の日に映画何本?⑤

【自立】

人間は馬や鹿と違って生まれて間もなく立てるわけではない。保護され養育されなければ生きていけない。そうして自立したならば、保護される範囲、そして養育の度合いも小さくなっていく。そして環境によって理性の質が形成されていく。

自立して生きていくには困難は多く待ち受けていることだろうし、痛みなしに人生は前に進まないだろう。ときに理性が自分を律して、ときに理性が自分を束縛する。

社本と村田は対局の人間として画面に登場するが、突き詰めて行けば人間という個体で地球に生まれた生命だ。理性の束縛で我慢を強いて生きてきたか、理性を解放して自立して凶暴化したか、それは本作で知るよしもないのだが、もしも理性の箍が外れたら皆等しく暴力の側へ堕ちていくのではないか?逆に暴力という聖域に辿り着くのではないか?

吹越満の抑制したウジウジした演技から凶暴化していく道程も、でんでんのハツラツとした凶暴性から痛みを子どものように嘆く終焉まで、穏便に済ますことや性欲に正直なところや、詰まるところクソだと吐き捨てるところや、すべてがグチョグチョの肉塊にされてしまうところまで、人が“剥き出す“ところを忠実なまで描ききる。神をも恐れずをルックで見せる小屋の残虐シーンから落とし前をつける理解の追いつかないクライマックスまで、人は46億年前に誕生した地球がときの針を進め今に至るまで“生命“の破片に過ぎないのだ。

その中で痛みを背負って生き、苦境を耐えて生き、理性を自ら壊して生き、それが命の終焉まで燃えているとプラネタリウムが示す星々の生命と美しいが命を喰らう熱帯魚で映し出される。

神なんて信じてないし、俺が世界のルールだと言わんばかりのでんでんの熱量溢れる演技から冷たい眼鏡の奥で青々と燃えていた吹越満の芝居が交錯する天体衝突を見せられる血みどろのプラネタリウムを鑑賞してしまった我々は重さと鬱さに向き合わねばならないと、大人の裏社会見学をさせられているようだ。