きゃんちょめ

映画 日本刀〜刀剣の世界〜のきゃんちょめのレビュー・感想・評価

-
【なぜプロ野球選手はアナウンサーにモテるのか問題】

なぜかというと、①結果の評価が②行為の評価へ、②行為の評価が③行為者の評価へと遡るからである。以下、結果には①、行為には②、行為者には③という記号をつけていくことにする。

たとえば、ある野球選手がいる。その野球選手は素晴らしいバッティングをする。素晴らしいバッティングをするとは得点に直結するように球を飛ばすということだ。

つまり、評価が発生した時間的順序から考えていくと、①得点に直結するような球が飛んでいったという素晴らしい結果の価値がまずあって、②その結果が「素晴らしいバッティングをする」という行為を彼がしていることにする。さらに、②「素晴らしいバッティングをする」という行為が③彼を素晴らしい野球選手であるということにする。

つまり、行為の属性が行為者の属性へとスライド的に理解されていくというところに、人間に特有の理解仕方がある。もともとは①結果が素晴らしかったはずなのに②行為が素晴らしかったような気がしてきて、さらには②行為が素晴らしかったはずなのに、だんだん③行為者が素晴らしいような気がしてくるのである。

結果が良かったのにいつのまにか結果を生み出す行為が良いことになり、行為が良かったのにいつのまにかその行為をする行為者が良いことになる。

そして、もはやその行為者が素晴らしいバッティングをしなくなったとしても、その行為者が素晴らしいということは消えなくなる。

こうして野球の試合がない時でも素晴らしいとされるバッターというものが成立する。バッティングという行為の性質が、バッティングをするバッターの性質であるかのように理解されていくのである。だから野球選手は、試合会場の外でさえ、かっこよく見える。たとえ美形でなくてもイケメンに見える。

この事情は人間ではなく物体でも同様である。たとえば、ここに、ある刀があるとする。「竹がするどく切られた」という①結果の価値がまずある。だから、その結果というものが②「竹をするどく切る行為」を擬人的にその刀がしていることにする。さらに「竹をするどく切る」という②行為が、その③刀を素晴らしい刀であるということにする。

つまり、もともとは「竹が鮮やかに切られた」という①結果が素晴らしかったのに、②「鮮やかに切る行為」が素晴らしいことになり、さらには、刀がしているかのように見える行為が素晴らしかったのに、だんだん③刀それ自体が素晴らしいような気がしてくるのである。

すると、その刀は、もう何も切らなくても素晴らしい刀であることになる。こうして刀は美術館で展示されることになる。美術館で展示される刀は、もはやなにも切らない。というより、何かを切ると刃こぼれしてしまうから、美術館の刀は他のものを切ってはならないことさえある。それなのにその刀は素晴らしいのである。

鋭く切られたという結果が素晴らしかったはずなのに、鋭く切る行為が素晴らしいことになり、さらには、鋭く切る行為が素晴らしかったはずなのに、刀そのものが素晴らしいということになっていくのだ。

これが、①結果→②行為→③行為者へと評価が遡及するという人間特有の評価の仕方である。
きゃんちょめ

きゃんちょめ