糸くず

ダニエラ 17歳の本能の糸くずのレビュー・感想・評価

ダニエラ 17歳の本能(2012年製作の映画)
4.2
バイセクシャルの少女による自由奔放なセックスの冒険を通して、キリスト教福音主義による性への抑圧を描いた傑作。

ポップでカラフルな映像で描かれるのは、ダニエラの果てることのない性への赤裸々な好奇心。男性器も女性器も画面に所狭しと乱舞し、チャットでも率直な会話が繰り広げられる。

一方で、ダニエラの家庭は、父と叔父が牧師で、母も叔母も敬虔なキリスト教徒である。それも「聖書の文言は全て歴史的事実である」「キリストが復活する日は近い」と本気で信じている福音主義者たちである。序盤ですぐに退学となるが、ダニエラが通っていた高校も当然キリスト教系の学校である。彼女はキリスト教的価値観を植えつけられているために自ずとキリストに添った生き方を模索するのだが、バイセクシャルでもある彼女は男も女も愛してしまうのであり、そのような性の在り方はキリスト教においては罪に当たる。

彼女の頭に刻み込まれたモラルと、彼女の心と体の在り方との間にはきわめて大きな矛盾があり、それゆえ引き裂かれ苦痛に悶えるダニエラの姿がこの映画の主題である。彼女は彼女を縛るモラルそのものを冷静に分析することはできるが、そうしたモラルを振りほどいて自由に生きることはできない。男も女も愛し、そしてどちらからの愛も失ったダニエラは最後に言う。「喪失の実感だけが確かなものである」と。わたしは、ダニエラが抱える喪失の痛みはきわめて現代的かつ普遍的でリアルなものだと思う。

「キリスト教の話」というだけで難解に感じる方は、こう考えてみるとどうだろうか。アウトサイダーへの抑圧と彼らの孤独はどんな場所でも起こりうることで、それぞれの場のモラルが彼らを引き裂いている。ある種の「正しさ」が生み出した差別や偏見が、彼ら・彼女らを苦しめる。この映画では、そのモラルが「キリスト教福音主義」だっただけだ。

マリアリー・リバス監督の新作“Princesita”は、カルト教団の教祖から子どもを産むことを求められる少女の物語だそうだ。つまり、「女性への性的抑圧と宗教」というテーマが新たな形で展開されていくものと思われる。これはわたしの勝手な妄想であるが、この新作が今年の東京国際映画祭のコンペティション部門に出品されて、この恐るべき才能がより広く知れ渡ることになったら最高だなと思う。
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