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オクジャ okjaのgeminidoorsのレビュー・感想・評価

オクジャ okja(2017年製作の映画)
3.8
This多忙な日々に突入直前に、"映画が観れる"日々との別れを惜しむかに立て続け鑑賞した。内、何本かレビューしそこねている内の一本。記憶に残った作品のみレビューしようと思う。



或る意味Theハリウッド。
視点は素晴らしいのだろうけど、素晴らしい主張を売りにきている。欲張り過ぎた感も。
でも、主役少女は頑張ってたし。
ギレンホールはこんな役もやるんだね〜ビックリだし。(余談だが彼の大腿四頭筋は凄いナァ〜)
相変わらずティルダはエキセントリックな変女をやるし。
監督は既にかなりのお金とコネは既に沢山持ち合せているだろうから、改めて少し理想的な話を仕上げたかったんだろうネ。
併し、導入部以外は宮崎駿とは匂いが大きく異なる。



以前、このヒトの書く本は全て追うぞと意気込んで誓えた作家の内の一人=藤原新也のエッセイ中に以下の話があったのを不図思い出した。

彼は都会の最も海側、つまり湾側の埋立地にアパートを借りていた時期があった。結構長いことだ。
目前の主要道路は大きな箱車トラック一群が連日通る。
昼と深夜。というか明け方。1日に2回、その通過には必ず波がある。
昼は、生きた豚や牛達を載せたトラック。たまに泣き声が聞こえたりしたそうだ。
コレは、つまり"行き"だ。
そして深夜もしくは明け方は、死んで(殺されて)肉塊となった彼らを載せたトラック。
つまり"帰り"だ。

沈黙の箱車が排気音だけ唸らせて、暗闇を通り過ぎてゆくのを藤原新也は意識し続けて、自らの思考や感覚を戒め、再確認していたのだろう。

そして箱車トラックは、終局何処へゆく?
果ては、私達がスーパーでパック詰めされた肉切れを前に立っている。赤身の色加減や脂の散り方に品定めしている日常の図な訳だ。

ワタシは一時期、彼にかなり感化されていたのか房総の先端のお宅辺りまでドライヴしたり。しかもエッセイで読んだ"サイトウ"という名の猫が居た野を見たくて。
その際に、前述の道路を調べて見当つけてワザと遠回りして走った。
何度か停車し、殺風景な建造物と現場が断続する埋立地の異様な灰色ばかりの風景に佇んだ。
そして前述の"行き"と"帰り"のトラックを想ってみたりした事を覚えている。
巷の人々が活動していたり眠っている同じ時間、必ず何処かで、この行きと帰りのトラックが走っていた。
今日、現在も走っているだろう。

"生は他の死によって成り立っている"

藤原新也が意識的に其処にアパートを借りた訳を想い、ワタシもまた他のことと併せてだが、さてさて自分はこれから先"どう生きようか""どう生きたいか"等々を考えたりした。
ドロップアウトして彷徨うばかりの人生であれ、残り半分はあるだろう人生の"向くべき方位"を探していたのか…今は見えないけど、同じ生きるなら見てやろうと"踠きたい方向"を探していたかも知れない。そんなフリをしていたかも知れない。
ま、当時30代後半から40前半だったから改めて迷いまくっていたんだな…




"食"に関して云えば、ヴィーガンやベジタリアンに徹すればいいのか〜等という1針穴からだけの話ではない筈だ。
衣・食・住とは言わずもがな、ヒトの生きる"世の中"の総じてはすべて繋がっている。

そしてこの世とは、実にヒトではない生き物や、鉱物や液体や、眼に見えない見えにくいモノで、とうの昔から構成されていて。
すべてが影響し合い、変化し続けている。
ヒトはそのバランスを、或る意味でブッ壊しながら(凄いスピードで無理くり変えながら)生きているんだろう。否、生きさせて頂いているだけなんだろう。

なのに、人間間のみで口にする"世の中"とやらの視点から、なかなか離れられないものだ。
自分は違うとしながらも、直ぐに企業や政府や世論の動きや発言に、つまり他者に感化されがちだ。
"汚染されている"のが自らではなく、下手すれば"汚染している"源の一端は必ず私達自身でしかない。



本作は"もっと考えろ"と、日々生きながら考えなさいナというメッセージとして受け取れば、それはそれでokな作品なんだろうナ…

"もののけ"や"やおよろずの神"を描けば良いと思っている訳ではない。
併し本作は、あくまでヒトの世の中を描いた止まりの軽さが否めず。
ここで一句
♪韓国どうよ 言わんばかりにハリウッド 海越えて 殴り込んでもハリウッド♪
ん〜、あんまり上手くないネ(苦笑)

楽しくは観れたが、再びは観ないだろう。
考えたり思い出すきっかけをくれたのだから有難い。
ちなみにレビュースコアにあまり意味はない。
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