ずどこんちょ

しゃぼん玉のずどこんちょのレビュー・感想・評価

しゃぼん玉(2016年製作の映画)
3.8
名女優・市原悦子さんの遺作となった本作。素晴らしかったです。

市原悦子さんが演じるスマさんの、田舎の優しいお婆ちゃん感がすごくて、深い懐に包まれていくような安心感を感じるのです。
「そうじゃった、そうじゃった。ハハハ」とすっとぼける笑顔も本当にナチュラルで素敵。すごく癒されました。
こんな人に、「坊は、ええ子じゃ」と言い聞かされていけば、どんなに固くなった心も解きほぐされていくものだと感じます。

育ってきた環境に恵まれず、女性や年寄りをターゲットに引ったくりを繰り返していた翔人は、ついに人を刺してしまいます。
逃げ込んだ翔人が辿り着いたのが、宮崎県の山奥の村、椎原村でした。
たまたまスクーター事故で道端から動けなくなっていたスマと出会った翔人は、スマを助けたことをきっかけにスマの家に居候状態となります。身元も本当の名前も知らずに、ただ「命の恩人だから」という理由だけで翔人に美味しいご飯や寝床を与え続けてくれる優しいスマに甘え、翔人は来る日も来る日もそこで暮らし始めるのです。
やがて、シゲ爺を始めとする村の人々や、とある理由によって翔人と同じ時期に村に戻ってきた美知と出会い、翔人は椎原村に居場所を感じ始めます。
その一方で、翔人は自分自身の罪と真剣に向き合い始めるのです。

村に転がり込んできた時の翔人は罪から逃げることだけを考えていました。
逃げ込んでこの村に辿り着いたのです。その上、スマらの世話を受けてもなお、いつでも逃げようとしていました。スクーターに鍵が挿さりっぱなしになっていれば、逃げ出したいという欲に駆られ、シゲ爺から殴られて「もうやめたい」と思えばこのまま車を盗んでトンズラしようと考える始末。
それでも翔人がその場に居続ける選択をしたのは、多分、逃げ出した先に彼の居場所はどこにも無かったからでしょう。

毎朝、スマが作ってくれる握り飯を食べ、勝手に仏壇から盗んだタバコを吸いながら青空を仰ぎ見て、「今日もいい天気だなぁ」と呟く朝。
そんな朝を迎えるだけで彼にとっては心の安住と幸せになっていたのです。
きっと逃げた先に待っているのは、逃亡犯としての暗くて窮屈な日々です。それならば、束の間のひと時、青空の下でぼんやりと自由に過ごせる日々を感じていたかったのではないでしょうか。

やがてシゲ爺に連れられて、山へ野菜を採りに行く日々が始まります。
お腹を減らすまで働いて、ばくばく美味しいものを食べるのが一番健康的な生活だと思います。身体も良くなるし、心も落ち着く。食欲があるということが、生命の本質なのです。身体が資本なのです。

ばくばく食べるためには、精一杯、体を動かして働かなければなりません。できない理由を探してゴロゴロしたり、頭を使ってただ座って働くだけじゃなく、人のために身体を動かすのが心身を変えるのでしょう。
山に入り、野菜を収穫し、筋肉痛になるぐらい働くのです。若造を挑発するシゲ爺ですが、ちゃんと働けばその分、シゲ爺もスマさんも認めてくれます。褒めてくれます。
最初の頃は不満だらけだった翔人でしたが、いつしか率先して早起きし、シゲ爺と共に働くことに喜びを見出し始めていました。

そうしたら、仕事終わりのご飯がとにかく美味しく感じるのです。
この映画では、「労働」と「食事」のシーンが多く描かれます。田舎の食材を生かした美味しそうな料理の数々。それらを、働いて食べる。食べて働く。
身体が健康になるにつれて、心も健康になっていくのを感じます。
川辺でシゲ爺とお昼ご飯を食べていた時、誤って翔人はおにぎりを落としてしまいますが、シゲ爺が自分の分を分けてくれるのです。すっかり師弟のような関係になっていて微笑ましいシーンでした。

田舎の面倒見の良いお爺さん、お婆さんから教わることは多いです。
逃げ癖根性を叩き直してくれるシゲ爺。あと60年ほど生きていくであろう翔人がこれからの人生で苦労しないように、仕事に連れまわし、厳しい言葉をかけてくれます。
きっとスマさんにもシゲ爺にも、翔人が何か大きな問題を抱えていて、この村に逃げて転がり込んできたことも分かっています。分かっていても、あえて何も聞かないのです。聞かなくたって良い。目の前にいる若者が、自分から話す時が来たらきっと話してくれると信じているからです。

ただ、逃げ続けるだけの人生には果てはないと分かっています。
確かに翔人が親に捨てられ、自暴自棄になるような人生だったのは理解できます。しかし、親に見捨てられたことが犯罪をして良い理由にはなりません。これから先、翔人が逃げない人間になるために、その逃げ癖根性だけは変えないといけないと思っているのです。
過去とか、背景とかは抜きにして、これからの翔人の人生を考え、本気で向き合ってくれる二人。人生のベテランとして、素晴らしい人格だと思いました。見習って、いつか自分もそういうお年寄りになりたいものです。

人の温かさに触れ、やがて心の拠り所を感じ始めた時、翔人は否が応でも自分の罪と向き合わなければならない時が訪れます。
村で出会った同年代の女性、美知。二人は次第に距離が縮んでくるのですが、ある日、翔人は美知が村に戻ってきた理由を知ってしまうのです。
彼女は通り魔犯罪の被害者だったのです。
自分の事件の被害者ではないかもしれない。でも、自分と同じような事件に巻き込まれ、傷を負った被害者だったのです。
そのことが翔人の罪の意識を苦しめます。
更に、スマさんが本当の息子よりも翔人のことを信じてくれたことで、翔人は嘘をつき、真実を隠して生きていくことに後ろめたい気持ちを抱えきれなくなっていきます。
いつしか彼は、真っ当に生き、嘘偽りのない姿でスマさんやシゲ爺たちと過ごしていきたいと願うようになっていくのです。

健全な心に心変わりしたのは、この村に逃げてくる前の荒んだ生活から一転して、よく働き、よく食べ、そして人に認めてもらえる人間となったからでしょう。
思えば椎原村に最初に辿り着いた時、野宿していた彼が目にしたのは美しい朝焼けの景色でした。丸まって眠っていた翔人は赤ん坊のよう。
それはまるで、人間が生まれ変わったことを暗示しているように見えたのです。

「俺にはさ、他に帰るところないからさ。また帰ってきたいんだよ、ここに。」

自分自身の罪と向き合った翔人は覚悟を固め、自分の罪から逃げない道を選択します。
そして、居場所と感じていたスマさんのこの家に戻ってくることを約束し、再び出て行くのです。

この時の翔人の旅立ちは、子供が親元から巣立って行く時と同じなのです。
スマさんは自分の本当の息子が都会に行きたいと言って飛び出す背中を押したことを、今でも後悔していました。そのせいで息子は金をせびるためだけに帰省するような自堕落な人間に落ちぶれてしまいました。
スマさんにとって、翔人はもはや本当の息子よりも大切な存在でした。「命の恩人」だけでなく、息子や孫同然になっていたと思います。
そんな翔人が、明日からしばらく自分の罪と向き合うために家を出ると言うのです。きっともう帰ってこなくなるんじゃないかという躊躇いもあったに違いありません。
それでも彼女はまた、翔人を送り出します。彼が乗った車が見えなくなるまで、いつまでもその姿を送り出すのです。
スマさんも今度こそきっと戻ってくると信じて、覚悟の上で送り出したのだと思います。
だからこそ、翔人もこの旅立ちはひと時の別れであって、またここに戻ってこなければならないと思えたのではないでしょうか。この場所に戻ってくることを頼りに、服役生活を乗り越えたのだと感じます。

翔人を演じた林遣都が、椎原村に初めて逃げてきた時と、再び服役生活を終えて戻ってきた時の顔つきがまるで変わっていて驚きました。

市原悦子さんが田舎の訛り言葉で喋ったら、それはもう「まんが日本昔ばなし」の世界です。
一瞬でなんだか懐かしい気分に浸ってしまいました。