ゆずっきーに

マンチェスター・バイ・ザ・シーのゆずっきーにのネタバレレビュー・内容・結末

4.2

このレビューはネタバレを含みます

ジャンルも見方も異なる多様な映画に点数をつけ続けること自体が映画を記号化して大切な諸々を捨象しているとしか思えず、filmarksをやってる自分に辟易する瞬間はままあるのだが、まあなんというか、観た映画が順番に並ぶ様はそれはそれで自分の趣向や愛着を分かりやすく残してくれるようでもあって、迷いながらも続けようかなと思う最近。

自分、映画詳しいっす。などとは口が裂けても言えないが、詳しくないなりにそれでも色々観ていると「説明せずとも伝わる」ことの大事さというか、台詞に頼った説明を挟まずにただ伝えたい情報を風景なり仕草なりに溶け込ませて受け手に届けてくれる表現、端的に言えば"滲ませる表現"の風味が分かるようにもなってきたと思う。

例えば是枝監督の『誰も知らない』では、困窮する子供だけの生活が徐々に崩壊しはじめる、そして子供たちはそれを我が事の凄惨な現実として全く受け止められていない、という事実を示すために落書きの描かれた督促状が画面の端にぽつっと置かれてたりするし(柳楽優弥が一人で家計簿つけてる画にピントが合っているのも対比的な効果を生んでいて本当にすごい)、『千と千尋の神隠し』のラスト、千尋が家族のもとへ帰る時のハクの手が揺れるコンマ数秒のカットなどはどんな台詞や表情でも表せない圧倒的な情報量を観る側に叩き込んでくる。
逆にノーラン作品などはやや説明し過ぎの節があるというか、誰が何回観ても同じメッセージを受け取るようにクドい台詞やカットで「分かりやすく」誘導し過ぎる画が遍在するようにも最近は思えてきた。もっとも『ダンケルク』の浜辺を飛行する飛行機のシーンなどは、そんなもの軽くブッ飛ばしてカタルシスを与えてくれるのがたまらないわけで。邦画だと山崎貴監督なんかがそうだろうか。
他方、例えば新海監督の過剰とも取れるモノローグなどはそれ自体が登場人物の曖昧な主観に根ざしたミスリードとして機能していたりもするから興味深い。どの新海作品も観直すたびに印象が変わるし(そういう訳で、新海誠は「分かりやすさ」の作風というよりは寧ろその対極に位置するであろう羅生門的な視点の遷移が持ち味なのかなあ、と認識を改めた次第)。多説明を逆手に取った不定の解釈ってもっと流行って欲しいのだが。傍流なんですかね。

んでこの『マンチェスター・バイ・ザ・シー』。長々と別作品のことばかり語りまくってしまったが、本作はその説明し過ぎない描写が本当に心地良いというのが真っ先にくる感じ。
何故序盤と終盤に主人公のリーがバーで客をぶん殴るのか?の説明は作中どこにも見当たらないが、観客側が前後の文脈や作品全体を見渡して考えると理解できるようになっているし、リーが持ってる写真立てに何が写っているか?は一度も明示されないのに観客全員がそこに誰が写っているのかを想像できる。いやお前そこらへんの描写は普通に分かりやすいだろと言う人もいるかもしれないが、昨今の何が何でも10割の説明を加えないと気が済まないヒューマンとかミステリーとかを見ていると本当に上手いなあと感心させられる次第である。
逆に説明が足りないと、作り手の自意識に塗れたカルチャー正義の衒学的な映画になってしまうわけで(勿論色んな映画を観ていれば理解できる幅も広がるんだろうなとは思う)、そのバランスが今の自分には心地よかった。映画の一側面として「どれだけ適度に引き算できるか」というのがやっぱりあるのかもしれない。

私達が現実に生きている日常は劇的なドラマなど滅多に起こらないし、人間の感情は本当に繊細で多彩で、容易に他者と分かち合うことはできない。大切な誰かや何かを喪った悲しみは他の出会いや愛に触れても消え失せることはないし、怒りをモノにぶつけるなんて映画では常套手段でもリアルではそうそうやらないだろっていう。
象徴的な行動や描写、説明のための台詞といったものが削ぎ落とされた先に残る、言ってしまえば平坦で救いに乏しい日常のままならなさを、“ままならなさ”のまま大衆が観入るに値する映画として昇華させた手腕に只々恐れ入る。ケイシーアフレック含むキャストの名演に依るところも大きいだろう。

マンチェスターの冬はリーの心のように寒々しく、一貫してどこか冷たいスクリーンの色調はそこから離れたい主人公の心情を観客と同一化させる。ラストで春が訪れても、観客が待望したような雪解けの時はやってこない(主人公が純真無垢な甥の後見人になって自分もだんだん心を開いていきます~みたいなストーリーだったら凡作になっていただろう)。それでも、船上のリーの晴れやかな笑顔は慎ましくも我々に救いをもたらしてくれるように思う。
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