ニューランド

妻と女記者のニューランドのレビュー・感想・評価

妻と女記者(1950年製作の映画)
3.4
✔『妻と女記者』(3.4p)及び『俺は用心棒(3.9p)』▶️▶️ 

 溝口や小津の様な大向こうを唸らせる、日本的美·その成果を見せつける決定的な様式·技術を持ったのは、すこしうっとおしいと言われる、結構多数の人がいてもおかしくない。そんな人たちを、しっかり掬い上げてくれる、より心優しく·センスのいい人気作家がいる。洒脱で奥ゆかしく、威圧感とは無縁な、はにかむような日本的な奇妙な何か。好き嫌いは別にして、泰樹と伊丹(万)、双璧の存在。
 『妻と~』。終戦前後の作や、60年代初めの加山出演もの等、好きで評価してる作品が、ないわけでもない。だが全体評価は個人的にペケなのが泰樹作品。人気作連打の戦後10年くらいの作から、周囲でも圧倒的ファンが多い(『~画像』『~緋牡丹』『鬼火』『下町』ら)。ラストの括りとの落差を除けば、実は不思議な才気が次々浮上してくる意匠のしっとりくる花火感、時代をあまり問題にしないマイペースのキャラさ、結構ウキウキして観てる。趣味の良さ=日本的で且つユニークはいいが、締めが何時も変だ。モラル=生きる意識的姿勢、の模索の面で作ったみたいで·内実情緒に流れ落ちてしまう。
 本作でも、頭にぶつかってくる他人の荷物、車の車輪の画面一杯捉え(少し後埠頭から海へ落ちそうに)、真俯瞰の中央階段捉え、背景の書割やスクリーンプロセスの現実離れ、若山セツ子の襟元へのOK仕草、絵画や写真と対象の埴輪や仏像、鎌倉の駅や浜や波のシンボル化、不貞腐れや颯爽も自分の個性(存在も衣装も)揺るがぬキャラら、表情CUカットの半抽象観念的·掲げ連ね、存分にニヤニヤさせ、また、何かカッコいい、連なり。
 「君は謂わば母の妻で、自分の意見がない」/「戦争から戻った息子に負担小さくと、援助もし、戦中実の娘如く大事に護った孝子さんを返さなかった。息子はひがみ強まり、浮き上がった」/「複数家族と同居は問題。日本的大家族主義から脱却を。きつくも独立させねば/「研究より生活の為の仕事を」/「私も1人で寂しいところを、家庭に招かれて嬉しく、甘えてしまい(私と新しい世界へと、幸治さんを)誤解させて」/「良平さんは才能あるんだから、場を」「もっと前へ出て。私も応援してるんだから」
 フォローから前後、俯瞰から縦の図、僅かズラシから90°中心正確変、何より(先に述べた)女の自立云々が単語として挙がる時等での表情CUへの押し連ね。
 妻の亡き父が与えてくれた別荘からの持家に戻り·妻と、焼け出され·先に同居の画家の実父母と、暮らすも、研究の仕事や家族からも浮き上がってる復員兵。戦友の妹の、写真記者の溌剌さに出逢い·妻を打消す魅力を見て、下宿出されたを家の二階下宿に招き、活力戻しか·危うい嵌りか、に流れ出す。女記者には、仕事や異性に自分をシニカルにしか打出せない同僚の存在もある。
 泰樹の評価が若い世代にも浸透してきたのは、ここ30年くらいか。知合いの私より若い人に、「最近千葉泰樹に夢中なんですよ」と最初言われた時は驚いたが。私などは、彼の戦後の屈折を潜った柔らかいのより、鮮やかな才気は、伊丹万作などの全てを突き抜けたものにストレートに感じる。息子の伊丹十三など、いつも親父に比べなんでこんなに駄目なのだろうと思わざるを得なかった。しかし、十三も一茂くらいの、作家才能はあるとは思う。とにかく、本作は泰樹作品の中ではめざましめ好編か(括りはやはり変だが)。
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 天才伊丹の追悼の形で発表された(遺稿?の映画化)、『俺は用心棒』。無論黒澤の『用心棒』等よりは遥かに傑作である。それは、弾く様なきらめきと共にしっとり濡れた艶やかさをもつ、演出家稲垣浩が、まるで伊丹自身が監督したようなスタイルを実践し得た成果でもある。時間経過や「うますぎる話には」、短歌をうたいあげたような、締まりと辛さのある字幕入れの余興や、戦前にタイムスリップしたかのような若くて軽妙な千恵蔵(高下駄·大髭の月形は、メイクが凄くて何だかわからないが)とその周辺世界、自然や視界の美しいものへの流れ出しのパンや移動、はさておき、手を掴むにしてもそれぞれを軽く押え·2人の繋がった全体を押さえる、歩いてて変な諍い·闘いになりそうで回避のドンデン·よりのバカ丁寧もキッチリ締まる、乾いてるも冷たい張り詰めあるカッティング、そのへんのトゥショット退き図でのつたわらぬ威嚇(平和望む)ポーズのナンセンスさ、正体や先を見通す知らぬ顔のアップや全体の他者動きのドンデン退くき図らの細かく先まで呼び込む細かな描写、何段階の退き縦図とそれに対応駆け寄りと戻り(近づいてよりの寄り切返しやどんでんも挟まり、)戦前伊丹時代劇のタッチ·呼吸を職人にしてやはり才人稲垣(元よりウェット系での名コンビ)が再現している。
 この主人公は何より争い事をスカすように避け、豪傑との掏摸を挟んだ対峙も「命失って、たかだか何文の命と言われるのも馬鹿馬鹿しい」と気に入り同士の相棒となり、彼等が救い·同行も(元より)金を奪ってトンズラ計画の女にも「すぐ捕まえれば、彼奴(豪傑)が何をするか」とかなり離れた所で確保·自分の分析だけを戻させ、用心棒として雇われたヤクザが役人に鼻ぐすりを効かせて、民や土地を荒らし放題の闘いに興じてるとわかると、夫々を焚き付けて解散や捕縛にもってく、等平和主義というか、平穏主義に只巧みに走り、周りを導くキャラを通す。ところがヤクザや役人の群れから逃げてゆく手段が、「どうして逃げる? 逃げてれば楽」といつしか極端な日常·常套の形となり、それまでの雲を掴むような滞り·フワフワ感が、止めどない走りに転じ、その宿を大きく離れ、体力·気力·社会的位置を、どんどん消耗させてく、フォロー移動やパン·退き重ね中心の、よりナンセンス·素っ頓狂な動的世界に様変りする。が、幸せの印と信じて持たされた物を事態は逆続きと気付かされ、捨てると、丁度1年元の宿に戻ってて、ずっと大事に守ってた猫は子持ちになってて、親身になってた飯屋の娘は·彼の女の為に牢から逃した男とも一緒にならず、只彼を待ち続けていた、場に行き合ってるに気づく。
 『国士無双』『赤西蠣太』『気まぐれ冠者』らの世界が、儘続き、伸びてゆく感覚·不思議な拠り所が得られてゆく。
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